失くしたものと積み重ね

 海と優月は夕方には帰って行った。「長居しちゃ悪いからね」とのことだったが、夕食込みで軽めのデートをしていくのだと海の方から聞いていた。仮に聞いていなくても、二人の態度から伝わるものが大いにあった訳だが。


「初々しいと言えばいいんでしょうか」


 二人を見送った吉乃が、静かな、優しい声でそんなことを言った。響樹に対してというよりは楽しげなひとり言、という印象を目元や口ぶりからは受け取った。

 それでも、発言の内容については響樹も同意するところだ。


「そうだな。羨ましいか?」

「いいえ……と言うと嘘になるかもしれませんね」


 緩やかに首を振って濡羽色の毛先を少し揺らした吉乃は、くすりと笑ってから「でも」と隣の響樹を見上げる。


「私たちもあったんですよ。あんな頃が」


 優しく目を細めた吉乃が、自分たちの『あんな頃』を懐かしむように微笑み、少しだけ首を傾けた。


「そうだな。あったんだよな」

「ええ」


 触れようとするだけで緊張していたのは、吉乃と付き合い始めてどのくらいが経つまでだっただろう。そんなことを考えると、彼女との思い出が自然と蘇る。きっと今の自分は、先ほどの吉乃と同じような表情をしているだろう。


「私の髪に触れるだけで顔を赤くしていた響樹君が、今では自然と腰に手を回して抱き寄せるんですから」

「その通りなんだけどさ……」


 吉乃が口元を押さえて楽しそうに笑うのに反し、優しく笑っていたはずの響樹は表情に少し苦みが混じるのを自覚した。そんな響樹の様子に吉乃が目を細め、そしてゆっくりと閉じた。


「まったく」


 彼女の希望通り、腰に手を回して抱き寄せ、少しの間唇をふれ合わせ、話す。小さな吐息とともにまぶたを上げた吉乃が、ほんのりと頬を染めながら満足げに微笑んだ。


「俺のこと言えないだろ」

「はい」


 響樹の腕の中の吉乃がどこか自慢げに頷き、その淡紅色の唇にそっと触れる。

 こんな風な|艶<あで>やかな仕草にはまだドキリとさせられるあたり、初々しさが残っている気もするが、半年前の自分たちや今の海たちとは違うものなのだろう。


「あの頃は、手を繋いだり髪を撫でてもらったり、そういった触れ合いの一つ一つにとてもドキドキしていました。優月さんたちを見て懐かしくて少し羨ましい気持ちはありますけど、あの頃のままの私が今の響樹君と一緒にいたら、心臓が止まってしまいますよ」

「それもお互い様だな」

「ええ」


 くすりと笑った吉乃を抱く腕に力を入れると、彼女はそのまま響樹に更に体を寄せる。

 半年前の自分では、絶対にこんなことはできなかった。先ほどの吉乃の仕草を見たら、顔から火を出していたはずだ。


「少し寂しい気持ちもありますけど、それ以上に幸せだと思うんです」

「初々しさを失くすことが?」

「はい」


 こくりと頷き、吉乃が優しく目を細めた。


「だって、二人で色んなものを積み重ねた結果ですから」

「……そうだな。本当に、そう思うよ」


 腕の中で「でしょう?」と少しだけ自慢げに微笑む吉乃の髪を梳き、軽い口づけを落とす。

 初めての時は、吉乃の顔が真っ赤に染まっていたことを覚えている。だが、響樹がそれに気付けたのは少し遅れてからだった。

 今は、吉乃の反応がよくわかる。温かに色付いた頬も、綺麗な唇も、その感触も。お互いに触れあった時に指先にほんの少し力が入ることも。そして彼女がどうしてほしいかも。

 だからもう一度、今度はもう少し長く触れ合う。やはりまた、吉乃の細い指先に僅かだけ力がこもった。

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