とある説の証明までの時間
「響樹君。少し背が伸びましたか?」
いつものように訪れた吉乃の部屋。その玄関で、彼女はじっと響樹を見つめた後でそう尋ねた。ただ、質問の形式をとってこそいるものの、答えはわかっていると言った表情だ。
「正解。去年より二センチ伸びてた」
制服の袖回りの感覚が何となく変わってきたような気はしていたが、身体測定が済んだ今でも単純に背が伸びたことは自覚できていない。それなのに吉乃はよく気付いたものだ。
見つめ返すと、少し誇らしげに笑んだ吉乃がはっとしたように眉尻を下げ、「すみません」と部屋の中へと促す。
「お邪魔します」
「はい、どうぞ」
少し遅れた普段通りのやり取りを終え、いつものようにソファーへ。そしてやはり同じく、お茶を持ってきてくれた吉乃が隣に腰を下ろす。
「ありがとう」と告げて一口頂いてから湯呑を茶托に戻すと、ちょうどそのタイミングで吉乃がぴたりと肩を触れ合わせてきた。
「あまり実感できませんね」
「そりゃ変わんないだろ。昨日今日で二センチ伸びた訳じゃないから余計に」
「そうなんですけど」
眉尻を僅かに下げてくすりと笑う吉乃の髪にそっと触れると、少しくすぐったそうにしながら彼女が体を離す。
「だけどよくわかったな。ほぼ毎日見てるんだから違いもわかりづらいだろうに」
「そうですね。本当にたまたまですよ。今日、玄関に置いてある芳香剤を変えたんです」
「全然気付かなかったな。匂いもいつもと同じだったし」
「はい。形が違うだけで同じ香りの物です」
吉乃はどこか嬉しそうにふふっと笑うものの、響樹からすれば反省点だ。吉乃に関してはどんな細かな変化にも気付きたいのだから。
「今使っている物は響樹君が初めてこの家に来てくれた頃と同じ物なので、何ヶ月も空いている分高さの比較がしやすかったんです」
「……しやすいか?」
「それはもう」
ニコリと笑う吉乃に降参の意を示すと、彼女がもう一度肩を寄せ、少し首を倒す。頭を撫でろという意思表示に頬が緩むのを感じながら素直に従う。むしろ喜んで行ったと言った方が正しい。
最上の感触を指と手のひらで味わいながら、微笑む吉乃と視線を絡ませる。
「あの頃だとまだ半年経ってないから、一センチくらいしか変わってないだろうに。相変わらず凄いな」
「記憶力の有効活用です」
「もっと大事なことに……いや」
くすぐったそうな笑顔の上で幸せを表す吉乃に呆れてみせ、軽口を叩こうとして思い直す。響樹が同じような記憶力を持っていたとして、きっとメモリの多くを彼女に割くはずだから。
軽く首を振ると、響樹の手のひらの上で吉乃が小首を傾げ、いたずらっぽい笑みとほのかに甘い花の香りが近付き、やわらかなものが触れた。
「大事なことだと、伝え足りませんか?」
「いや。十分すぎるほど伝えてもらってるよ。だから――」
今度は響樹から伝え返すと、破顔した吉乃が体勢を変えて響樹にゆっくりと体重を預けたので、その華奢な体をしっかりと受け止めて抱き締める。
「やっぱり、実感はできませんね」
腕の中の吉乃がふふっと笑い、そのまま響樹にキスをせがむ。
少し長めに触れ合わせた唇を離すと、吉乃が響樹の体に優しく手を這わせ始めたので、幸せなくすぐったさを覚える。
「トレーニングの成果が出ている分、抱きしめられる感触は以前と変わりましたけど」
「因みにプラスとマイナスどっちだ?」
「プラスです。安心感が増したような気がします」
ほんのりと朱が差した頬の吉乃が口の端を少し上げ、そのまま響樹の胸元に顔を埋める。そんな彼女の髪を撫でながら、吉乃を抱き締めた感触はずっと変わらないなと響樹は思う。響樹にとっては最上の幸せの一つだ。
「なら良かったけど、身長の方はちょっと伸びたくらいじゃ変わらないだろ」
「そうかもしれませんけど、カップルの理想の身長差は十五センチと聞いたことがあります。キスやハグをしやすいんだそうです」
「へえ」
出会った頃の身長差は恐らく十センチほどだった。今はもう少し広がったのだろうが、吉乃の言う説は実感ができていない。
「俺があと三、四センチ身長延ばせば実感できるのかね」
「今日明日でそれだけ伸びれば実感できるかもしれませんね」
「無茶言うなよ」
響樹の苦笑に対し、顔を起こした吉乃がくすりと笑う。
「まあ、その説の証明は気長に待ってくれ」
「はい。何年でも何十年でも」
「何年でダメならもう無理だろ」
「そういう意味ではありませんから」
「知ってるよ」
口を尖らせた吉乃が「もう」とささやくような声を出し、優しく目を細めた。
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