相互理解

「なあ」


 をくれた吉乃は、まだこぶし一つの距離。呼吸をほんの少しだけ早くし、響樹の左胸にそっと手のひらを当て、上気した顔に微笑みを浮かべた。


「なんで風呂入ってるんだ? いつももっと後だろ」


 響樹はそんな吉乃の腰と背中に手を回したまま、この部屋を訪ねて以来ずっと抱いていた疑問をぶつける。普段通りの部屋着の吉乃からずっと感じていた彼女の香り、それが少し強いのがどんな時かは誰よりも知っている。

 響樹の問いには答えず、妖しい笑みを浮かべた吉乃の顔が近付き――

 数秒の接触を経て離れていった。


「早くなっていますね」

「……そりゃあな」


 吉乃が視線を送った彼女の右手、そのしなやかな指先が響樹をつっとなぞる。また少し、鼓動が早くなった気がしてならない。


「響樹君に喜んでもらおうと思いまして」

「……否定出来ないのが悔しいよ」

「と、いうのは冗談です」

「おい」


 少し体を離した吉乃が口元を抑えてふふっと笑い、響樹が寂しさを感じる間も無く、しなを作るように愛らしく首を傾けた。


「一日土のグラウンドにいた訳ですからね。体、特に髪に着いた砂を早めに落としておきたかったんです」

「なるほど。凄い気を遣うんだな」

「そう大したことではありませんよ」


 少しくすぐったそうに首を振る吉乃に、響樹も首を振って返した。

 体育大会の後ということもあって響樹も体の方は拭いてきているのだが、髪までは気に留めていなかった。男女差や髪の長さの違いがあるにしても、吉乃が様々なことに気を配り、その結晶が今の彼女なのだと改めて感心する。

 少し揺れた濡羽色の毛先に触れる。大切な宝物を、そっと撫でる。


「最初に言ったことも、本当は冗談ではありませんけどね」

「ん?」


 毛先から顔に視線を戻すと、目を細めた吉乃が少し頬を緩ませていた。


「俺に喜んでもらうってやるか? まあ事実だしな」

「いえ、むしろ逆と言う方が正しいでしょうか。響樹君がそういう視線を向けてくれることが嬉しいんですよ。私が、ですよ? それにやっぱり、触ってもらうときには綺麗でいたいですから」

「吉乃さんはいつでも綺麗だよ」

「もう」


 呆れたような表情こそ作ってみせるものの、その綻びが手に取るようにわかる。


「ちなみにだけど。今日は俺の髪には触らないでくれ」


 そう告げると、一瞬だけ目を丸くした吉乃がいたずらっぽい笑みを浮かべたので、先んじてそのやわらかな手を捕まえておく。


「信用がありませんね」


 言葉とは裏腹に嬉しそうに笑う吉乃が手首を返し、逆に響樹の指を絡めとる。


「信用してるんだよ」


 響樹が嫌がった以上、吉乃が本気で触れようとしたとは思わない。ただ、彼女がこういった形でじゃれ合いを求めていることは、やはり響樹には筒抜けなのだ。

 だから存分にこたえようと思う。何より響樹自身がそうしたいのだから。

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