人目を避けて
夕食を終えて少しゆっくりとした後、残念ながら吉乃を送って行く時間となった。何をするでもなくただ隣り合って過ごしただけなのに、時間の流れが随分と早かったように思う。まあ、起床後に布団の中にいた時間が長かったことも理由の一つなのかもしれないが。
不思議なことに、別れ難いという思いは無かった。もちろん毎回離れたくないとは思うのだが、今日もいつもと同じ程度にその気持ちを抱いただけ。普段よりも長く時間をともにし、昨夜に至っては一線を超えたにもかかわらず。
「さて、じゃあ行くか」
「ええ。お願いします」
部屋の時計に視線をやってから声をかけると、吉乃がやわらかく微笑んだ。
吉乃の荷物を持った時も、「甘えさせてもらいますね。ありがとうございます。」と、もう少し表情が緩んだものの、やはり浮かんでいたのは優しい微笑み。
部屋を出ると吉乃が鍵を締めた。合鍵自体は以前から渡していだのだが、二人でいる時には施錠も開錠もするのは響樹だった。昨日の買い物帰りだって、今と同じく片手が塞がっていたのにそうだった。
だからこれは、吉乃の心境の変化なのではないかと思う。彼女の白いキーホルダーの中に三つの鍵――響樹の部屋、吉乃の部屋、恐らくもう一つは彼女の実家の物――が並んでいる光景を見ても思うが、吉乃がまた一歩、響樹の内に踏み込んでくれたような気持になる。
「ありがとう、吉乃さん」
「どういたしまして」
その証拠に、振り返った吉乃の笑みはどこか得意げだった。
思っていたよりも別れが辛くないのは、二人の距離がより近付いたからだろうか。
「自分の部屋だと思ってくれればいいからな」
「流石にそこまで図々しくはなれませんね」
少し眉尻を下げてくすりと笑った吉乃が、「でも」と言葉を続ける。
「またこういう機会があると嬉しいです」
「これからも、いくらでもあるだろ?」
「はい、そうですね」
表情を崩した吉乃に差し出した手を取った彼女は、そのまま指を絡めた。階段を降りた後はほぼゼロ距離で歩き、いつの間にか腕を組んでいた。
今日は朝イチ以外であまり体のふれ合いは無かった。互いに意識してのことだったと思うのだが、少なくとも響樹は無理をしていた。
「……どうしても、意識してしまいますよね」
「だな」
窺ってみると、顔は正面を向けたまま、吉乃が視線だけを響樹に送る。その頬はほんのりと染まっており、彼女の言葉通りなのだとよくわかった。
「……本当はさ。今日一日、もっとこんな風にしてたかった」
今度向けられたのは視線だけでなく、吉乃が大きな瞳をぱちくりとさせ、足を止めた。
「ただ、何て言うかあれだ。カッコつけと言うか、こう……体だけ求めてるみたいには思われたくなくてだな……」
「……そんなこと、思うはずが無いでしょう?」
「そりゃわかってるけどさ……」
軽く息を吐いた吉乃がわざと呆れたような声を作るので、響樹としては視線を逃がしてしまう。
だが、ふふっと優しく笑う声につられて視線を戻すと、破顔した吉乃が「すみません」と口元を押さえた。
「私も同じです」
「同じ?」
「はい。今日一日、もっとこうしていたかったです」
無理をしていたのは自分も同じであると、吉乃はそうはにかむ。
「響樹君と同じです。はしたないと思われたくなくて」
「思う訳無いだろ」
「わかっていても、というのは、響樹君もご存知の通りです」
「……返す言葉も無い」
苦笑を返すしかない響樹を前に、吉乃がくすりと笑った。そして、視線を合わせて二人で同じように笑い、互いの顔が近付いているのに気付いてまた笑い合う。
再開した二人の歩みは、先ほどまでよりも速かった。
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