感謝を二つ

 胸板に僅かな重みを感じて、意識が底から少しずつ浮上し始めた。重みと言っても不快なものではなく、優しい感覚だと思えた。

 次いでほのかにあまい花の香り。それが何によってもたらされているのかは明らかで、上昇速度は一瞬で上がり、響樹の意識は水面から顔を出す。カーテンに遮られた薄暗さがまどろみから脱したばかりの響樹にとって心地良い。そしてそれをはるかに上回る心地良さが隣にいる。


「おはよう……吉乃さん」

「おはようございます、響樹君」


 自身の胸元にそっと寄り添うように触れていた恋人に声をかけると、落ち着いた静かな声が目覚めたばかりでまだ少しぼやけた意識をくすぐる。視線は絡めたまま、優しいまなざしに吸い込まれそうだと、意識せずに「綺麗だ」と言葉が漏れた。

 途端、その綺麗な瞳が大きく見開かれ、吉乃が息を飲むのが聞こえた。恨めしげな視線を送られはしたが、寝ぼけた頭では――そうでなくともだが――愛おしいとしか思えず、もう一度「綺麗だ」と口を衝く。


「……ばか」


 それだけ言って響樹の視線を避けるように顔を埋めた吉乃の髪をそっと撫でる。まだはっきりとしていない意識に、手指で感じるなめらかな感触の素晴らしさが流し込まれていく。寝起きで多少乱れているというのに、何の抵抗もなく梳いていける濡羽色。


(いつまでもこうしていられるな)


 段々と意識が明瞭になってきていてもそう思う。だが、そうやって動かしていた響樹の指が吉乃の耳に触れ、されるがママだった彼女が大きく体を震わせた。顔を埋めていた胸元に、吐息を感じた。その一瞬で、響樹の意識は水面から天上へ。

 響樹の手が止まったからか、胸元の吉乃が僅かだけ顔を起こす。露わになっているのは羞恥で潤んだ瞳とその周りだけではあるが、真っ赤に燃えているのが明らかにわかる。


「あー……」


 急に触られたせいで驚いただけなことはわかるのだ。それなのに、昨夜の行いのあらゆる場面が思い起こされてしまう。

 白いパジャマに視線が吸い込まれ、その向こうの肢体を鮮明に思い浮かべそうになってしまい、吉乃から見えないように自身の腿を思い切り抓る。不埒な思考を一掃……出来たとは言い難いが、それでも何とか普通の範疇の表情は作れている。そう思いたい。


「改めてだけど、おはよう」

「……おはよう、ございます」


 熱を集めたままの顔に眉尻を大きく下げながらの少しぎこちない笑みを浮かべた吉乃が、ゆっくりと顔を上げた。響樹と視線を合わせ、反らし、また絡ませてまた逃げる。浮かべた笑みもそんな仕草も、彼女が感じている恥じらいの大きさを示している。

 響樹自身もそうだ。何よりも見ていたい吉乃の顔なのに、直視するには腿を抓り続けなくてはならない。そうしていてなお、頬の筋肉にまるで力が入らないのだから始末に負えない。


「……おはよう」

「おはようございます」


 昨夜とは違う意味で言葉が見つからない。吉乃と一緒にいる時はいつだって、口にしたいことがいくらでもあった。もちろん今だって、これまでと同じで居心地の悪さは感じていない。ただどうにも、照れくさくてもどかしい。

 あんな行いの後でよくもまあ会話を続けられたものだと、一夜明けた今となっては感心してしまう。その振り返りがまた、響樹の頭を熱くする。

 そんな訳で口にした三度目の「おはよう」ではあるが、響樹の視界の端に映っていた吉乃が目をぱちくりとさせ、くすりと笑った。


「言った通りになりましたね。一緒に恥ずかしい思いを、と」

「……だな」


 頬を染めたまま、嬉しそうに目を細めた吉乃が響樹の頬につっと指を這わせ、そっと唇同士を触れ合わせた。


「昨夜は私がしてもらってばかりでしたから」


 少し積極的な面を見せはしたが、やはり恥ずかしさは健在のようで、吉乃はもう一度響樹の胸に顔を埋めた。

そんな彼女の髪にまた触れ、心の中で二つの感謝を告げた。一つは今のこと。そしてもう一つは、顔を見られずに済んだことに対して。

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