睦言
かけるべき言葉を探している。感謝や労りの気持ちはもちろん大きいのだが、真っ先にそれを口にするのは違う気がした。
腕の中にいる最愛の相手に。体と体温を重ねたままの恋人に。何を伝えるべきだろう。髪をそっと撫でると、顔すら触れ合う距離にいる彼女が表情だけでキスをせがんだ。先ほどまでの互いに溶かし合うようなそれとは違い、ただそっと唇を触れ合わせたまま、離さなかった。
「吉乃さんが好きだ」
選んだ訳ではなく、僅かに顔を離した吉乃と視線が絡んで、ただ気持ちがこぼれた。
「響樹君が好きです」
ほんの少しの暗い部屋の中でも、吉乃の笑顔がよくわかる。紅潮はそのままに、優しく、愛おしいものに向ける、響樹にだけ向けられる彼女の笑み。
言葉を交わし、どちらからともなくの抱擁。吉乃の心地良いやわらかさが響樹に温かさを与え、響樹もまたそれを返す。僅かに汗ばんだ体同士でじとりとした感触はあるが、そんな感覚さえも大切に感じられた。
「もう少し、こうしててもいいか?」
「ええ、もちろんです」
耳元で尋ねると、お返しのように吉乃が耳元で囁く。静かで落ち着いた彼女の声に煽情的なものを感じてしまうのは、ここに至るまでの状況ゆえだろうか。
初めて見る表情、初めて聞く声、そして、響樹を強く求めてくれた腕と手のひら、指先。吉乃ほどの記憶力が無い響樹でも、きっと忘れることはないだろう。こうしてゼロ距離で抱き合ってより強く感じられる彼女の甘い香りすら忘れて、夢中になっていた光景のことは。
それだけではない。震える手で吉乃のパジャマのボタンを外そうとした時、反射的にそれを制そうとした彼女。羞恥で燃えた頬で、大きく眉尻を下げながらも笑ってみせた彼女。そんな始まりから、何度も何度も何度もキスをせがんだ彼女。少しだけ歪んだ顔で痛みを堪えながら、「大丈夫です」と優しい強がりをみせた彼女。その全てを忘れない。
「響樹君」
耳元で囁いた吉乃が、響樹の背中に回した指に少し力を込めた。くすぐったいとは思わなかったのに、吐息のような呼び声が、自分を求めるかのような指の動きが、響樹にぞくりと享楽を流し込む。身も心も情欲の炎に焦がされそうだとさえ思えた。
くすりと笑った吉乃が人差し指で響樹の唇をそっとなぞった。またせがまれている。今夜の彼女は、今までで一番あまえんぼうだ。それがより愛おしい。女性の吉乃が抱いていた不安は響樹の比では無いはずだ。それなのに、体を許してくれたことを含め、寄せられた彼女の信頼がこれでもかと伝わってくるのだから。
「吉乃さん」
優しく呼びかけてやわらかな頬に指を這わせると、彼女が少し体を震わせた。そんな反応がまた、響樹の心をどうしようもなくくすぐる。視線が重なり、そして吉乃がまぶたを下ろしてより強く響樹を抱きしめる。求められているものがどちらかは明らかで、響樹は彼女と自分自身の望みを叶えた。
くぐもった声で互いの名前を呼びながら、情熱的な口付けを続けた。顔を離して少し大きめの呼吸をすると、向かいの吉乃が同じことをしていた。そして顔を見合わせて二人して笑う。
「凄く綺麗だ」
髪を梳きながら伝えると、吉乃がくすりと、少しいたずらっぽく笑った。
「響樹君も男の人なんですね」
少し体を離し、吉乃はベッドに横たわったままの自分の体を見下ろすように眺めてそう口にした。
「……そういう意味でもあるんだけど、それだけじゃない」
「はい。ありがとうございます」
服の下は初めて見た。触れたくてたまらなかったはずなのに、触れるのをためらうほどに綺麗だと、美しいと思った。至高の白磁を思わせる肌そのものも、触れたら折れてしまいそうに細い体躯が描く煽情的な曲線という矛盾も。そしてそれらが、烏丸吉乃が磨き上げたものであるということも。
今までも思っていたことではあるが、彼女のそういう在り方はやはりどうしようもなく美しく、尊敬する。
「しかし、吉乃さんは俺のこと男として見てなかったのか」
「そんなこと、ある訳無いでしょう」
微笑む吉乃に軽口を叩くと、小さな笑い声が返ってくる。
「でも、響樹君はずっと紳士的でしたから。あんな風に、夢中になって私を求めてくれると思っていなかったんです」
「……買い被りだな、いくらなんでも」
軽く息を吐いて伝えると、吉乃は「そうでしょうか?」とふふっと笑う。
「大好きな吉乃さんの体見て、それで冷静でいられる訳無いだろ? 凄く綺麗だ。今度はそういう意味で言ってる」
ことが終わってからは視線を向けないようにしていたが、敢えて向けた。それなのに、吉乃は眉尻を下げて少し身を捩っただけ。
「ありがとうございます。恥ずかしいはずなのに、高揚しているせいか嬉しくて仕方がありません。……多分、いえきっと。朝には思い出して悶えてしまうと思います」
「じゃあせっかくだし、今の内に目いっぱい褒めとくよ」
「では私も響樹君の素敵だったところをたくさん挙げます。明日の朝、一緒に恥ずかしい思いをしてくださいね」
「ああ」
軽いキスを交わし、二人で思い出を作り合った。随分と恥ずかしい思い出を。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます