約束

「風呂、入るよな?」


 長い長い唇どうしのふれ合いとそれに付随する行為を一旦止め、最後の最後に残った理性を振り絞った言葉を口にする。

 僅かに体を離したとはいえ、まだ腰を抱き寄せたままの恋人の姿に喉が鳴った。吐息は少し荒く、頬を熱く染め、響樹を映す瞳は潤み、淡紅色の唇は湿り気を帯びている。さいごの最後の理性は本当のギリギリで間に合ったらしい。言葉を発する前に今の吉乃を見ていたら、まず間違いなく無理だった。


「……はい」


 少し呆けたようだった吉乃が一拍遅れて言葉を返し、小さく頷いた。響樹の背中と首に回された腕が僅かに動く。別にくすぐるような動作ではなかったのに、キスの最中にはもっと力がこもっていたのに、どうしてかもどかしさが爆発しそうだ。


「……風呂の準備は出来てるから、先に入ってくれ」


 吉乃が来る前に風呂掃除は済ませてあるし、夕食後の時間には湯張りが済むように設定してある。準備がいいと言うべきか、気が逸っていると言うべきかなので考えると、多分後者だ。


「ありがとう、ございます」


 熱のこもった吐息だと感じてしまうのは、自分の体が熱いからだろうか。

 いや、きっとそれだけではない。入浴の意思を示してくれたのに、吉乃は響樹の体から手を離そうとしない。まあ、響樹も吉乃から手を離せないでいるのだからお互い様なのだが、彼女が僅かの離別さえも拒んでいるのが伝わる。


「……一応、タオルなんかの用意はあるから」


 しばらく見つめ合ったまま時間が過ぎて、僅かだけとはいえ一度開いた距離がまたゼロに近付いているのに気付く。断腸の思いで吉乃から手を離すと、「ありがとうございます」の言葉とともに響樹に吐息がかかり、ゆっくりと彼女の体が離れていった。

 これ以上は本当に自制が利かなくなると手放したのに、失われていく熱に覚えた焦燥と寂寥で思わず伸ばした手は、優しく絡めとられた。

 白くしなやかな指が響樹の手を指先までそっと撫で、そのまま絡み合う。熱を帯びながらも優しく微笑む吉乃が、やはり優しく響樹に口付けを落とし、「行ってきます」とまた優しく微笑んだ。



 自分の家でこれほどまでに落ち着かないことなど、生涯で考えても今日以外にあり得ないと断言が出来る。

 吉乃が入浴しているのを待つ間も随分と落ち着かなかったが、こうして自分の番になってもまだ、いや、更に落ち付かない。


「ここ俺の家か?」


 などと自問しても、見える景色は変わらない。そう広くはないが、築が新しいために綺麗で設備も良い、見慣れた浴室。しかしそんな場所が今、まるで違う空間のように感じてしまうのは。ここに先ほどまで吉乃がいたことを意識してしまうから。それも一糸纏わぬ吉乃がだ。

 交代のタイミングでは、「お先にお風呂を頂きました」と出てきた吉乃を直視せずに浴室に来た訳だが、心を落ち着けるべき段階でもより強く彼女を意識してしまい、余計に鼓動が速くなっている。


「落ち着け落ち着け」


 そんなことを言っている時点で無理なのは百も承知だが、この場にそう長居はしていられない。響樹自身の気持ちとしてもそうだが、吉乃を待たせたくはない。

 この後の行為を、ではない。一人残された彼女だってきっと落ち着かないはずなのだから、一刻も早く隣に行きたかった。



「待たせたな、悪い」


 落ち着かないのは相変わらず。ただきっと、それは吉乃も同じなのだから、二人で共有すればいい。


 居室内に戻ると、吉乃は何をするでもなくクッションの上に座っていた。いつものように凛とした姿勢ではなく、ハート型のクッションを抱きながら少しだけ背中を丸めて。物音を立てなかった訳ではないので響樹には気付いていたと思うのだが、声をかけるまで反応は無かった。


「……いえ。私の方がお風呂は長かったですから」


 眉尻を大きく下げてはにかみを浮かべた吉乃は、抱いているクッションの端を摘まんだ。意識してか無意識かはわからないが、やはり彼女の方も随分と緊張しているのだと伝わってくる。


「湯冷めしてないか?」

「はい」


 以前も見せてもらった上品な光沢の白いパジャマ。顔や首元などは湯上りの血色の良さが少し残っているだろうか。

 見下ろす形になったが、胸元のクッションのせいで大きく開いた襟ぐりから覗く部分が見えなかったのは残念である。しかし冷静に考えれば救いだっただろう。


「……こっち、来てくれ」

「…………はい」


 ベッドに腰を下ろす響樹をじっと見ていた吉乃に声をかけると、まずはこくりと首肯。それから少し遅れて小さな返事があり、彼女はゆっくりと立ち上がった。ハート型のクッションを抱いたまま。

 一歩一歩響樹に近付くたび、整いに整った顔には少しずつ緊張の色が滲んでいく。ただ、あと少しのところにいる吉乃の甘い香りが感じ取れるようになると、響樹の緊張も一気に高まる。


「失礼します」

「……ああ」


 そっと腰を下ろした吉乃から、ふわりと強い匂い。風呂上がりの彼女の、甘く、響樹に高揚をもたらす香り。

 肩が触れ合い、思わず体が少し跳ねる。そんな響樹に驚いたのか、吉乃の体がかすかに震えた。


「……悪い」

「いえ……」


 眉尻を下げて笑う吉乃はもう一度響樹に体を寄せ、今度はぴたりと肩を触れ合わせた。


「温かいですね」

「風呂上がりだからな」

「そうかもしれませんけど、そういう意味ではありませんよ」

「だろうな」

 くすりと笑った吉乃の手からクッションを奪い、枕元へ。彼女はその様子を不思議そうに首を傾げながら見ていて、その後で少しいたずらっぽい笑みを浮かべた。


「クッションに嫉妬してしまいましたか?」

「ああ」


 情けない答えを堂々と返すと、目をぱちくりとさせた吉乃が表情を崩す。

 響樹はそんな彼女の手を取り、自身の左胸へと導く。また、吉乃の大きな瞳が瞬きを見せた。


「お風呂上がりの響樹君は何だか余裕があって、緊張しているのは私だけなのかなと思っていましたけど、そうではなかったんですね」


 手のひらの位置はそのまま、響樹の鼓動を感じながらの吉乃がもたれかかる。肩に心地良い重みと、体にはそれ以上のやわらかさ。


「緊張も二人で一緒なら悪くないだろ?」

「ええ。多分、今までで一番緊張しています。それなのに、不思議と心地いいです」


 肩から頭を離した吉乃がまぶたを下ろしたのを合図に、響樹はそっと彼女と唇を重ねた。風呂に入る前と違って、そっと。ただ触れ合わせただけ。響樹の胸にあった吉乃の手のひら、その指先が立てられ、つっと這うように僅かだけ動いた。


 唇を離してまぶたを上げると、鼻先が触れ合う距離の吉乃も同じように瞳を開けた。その中に映るのは響樹だけ。今この瞬間、互いに互いを独り占めしている。

 もう一度、短いキス。そしてまた、互いの瞳に互いだけを映す。


「照明、ちょっと落とすな」


 視線を重ねたまま、吉乃の顔が小さく縦に動いた。

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