自信

 経験の差はあるものの吉乃の飲み込みの早さは人間離れしているし、元々運の要素も大きいゲームだ。響樹が実戦で戦法を教えた――からかいも二割くらいはあったが――事もあって、ついにその時がやって来た。


「勝ちました……勝ちました!」


 ゴール後の画面を見つめたまま呟くようにまず一度。そしてその後で響樹に向けて顔を綻ばせる。勝ち誇ったようでもなく、ただただ嬉しそうな笑みを浮かべている。


「あー……思ってたより早く負けたな……流石だな」


 ずっと勝ち続けられるとは思っていなかったが、悔しいものは悔しい。ただ、隣の恋人の表情がそんな感情をあっさり上書きしていき、思わず手を伸ばした。

 当然のようにそれを受け入れた吉乃が響樹に体を預け、コントローラーを置いて心地良さそうに目を細める。


「あ」


 しばらくそうしていると、吉乃が何かに気付いたかのような声を上げ、じっと響樹を可愛らしく睨んできた。

 子ども扱いしたつもりは無いが、この状況は大人が子どもを褒めるかのような状況だなと思っていたので、彼女がそう思っても仕方ないだろう。


「さて。次のレース行くか」

「……ええ。ここからはずっと私が勝ちますから」

「やってみろ」

「やってみせますよ」


 誤魔化した響樹にそう言って自信を覗かせた吉乃だったが、次は流石に響樹が勝った。とは言え流石に吉乃もどんどん慣れてきて、最終的な勝率は二割に届いた。

 本人としてはその結果に不満はあったようだが、初めてのゲーム体験を中々に楽しんでくれたのは間違いなかったようで、食事中の話題も映画はゼロでゲームの事ばかりだった。



 少し遅い夕食をとり終えると、時間の経過とともに少しずつ互いの口数が減っていった。それまでは軽口を叩き合い、時間を忘れていたというのに。

 閉じたカーテンの向こう側がもう暗くなっている事は知っている。二人の間に夜が訪れた。ただ、今日のそれは別れをもたらさない。もたらすのは別のものだ。


 流れる沈黙は重苦しいものではないし、気まずさなども一切無い。ただ、もどかしい。

 食事中は向かいにいた吉乃が今は隣にいて、肩を触れ合わせながら時折響樹を見上げ、恥じらいを伴った微笑みを浮かべる。きっと響樹も似たような顔をしている……いや、もっと緊張をはらんだ表情だろうか。


「寒くないか?」


 とりあえず天気の話、という訳ではない。二人とも格好は昼のまま。響樹の体感ではまだ寒いというほどではないが、これから夜が更けるにつれて気温は更に下がるだろう。


「はい。だいじょう……いえ、やっぱり少し寒いかもしれません」


 小さく首を横に振って濡羽色の髪をさらりと揺らした後、言葉を切った吉乃が何かを思いついたようにニコリと笑った。その意図は当然わかる。

 今日、この瞬間に至るまで、吉乃には随分と勇気を出してもらった。だからここから先は、響樹が見せる番だ。

 そう決意しながらも少しためらいはしたが、細い腰に手を伸ばし、やわらかな体を普段より強く引き寄せた。吉乃は少し驚いたような表情こそしたものの、響樹の腕の中に入ってからは優しく口角を上げ、まぶたを下ろした。


 唇を軽く触れ合わせて離すと、まぶたを上げた吉乃がふふっと笑い、「やっとですね」と静かに口にした。


「やっと?」

「ええ。今日の響樹君はキスをしてくれませんでしたから」

「……そうだったか?」

「私の記憶力に疑いがおありですか?」


 ニコリと笑う恋人に白旗を上げざるを得ない。いや、多分その前の段階からだ。不自然に避けていたつもりは無かったのだが、やはり吉乃にはわかってしまうのだろう。


「……自信が無かったんだよ」

「自信?」


 きょとんと首を傾げる吉乃に「ああ」と小さく頷き、響樹は少しの沈黙を経てから口を開く。


「したら、その後我慢出来る自信が無かった」


 流石にそのまま襲い掛かるような理性の失い方はしないだろうが、多分その後の事を意識せずにいるのはきっと無理だったと思う。吉乃が提案してくれて響樹も望んだ今日一日、その時間を楽しく過ごすのに不純な思いを混ぜたくなかった。


 静かな部屋の中で、目を見開いた吉乃が息を飲む音が聞こえた。


「顔が赤いですよ」

「吉乃さんもな」

「でしょうね」


 くすりと笑った吉乃がそっと響樹の左胸に触れ、「こちらも。凄い事になっています」と優しく目を細めた。「だろうな」と言葉を返すと、彼女の右手がすっと響樹の体から離れ、寂しさを感じる間も無く両腕が首の後ろへ。朱色に染まった整った顔はすぐ目の前。

 また一瞬だけ、今度は吉乃からの口付け。そして彼女は妖しく微笑んだ。


「今は? 自信のほどはどうですか?」

「はっきり言って、もう無理だ」


 吉乃の反応を待たず、響樹は唇を奪った。今日、何度も何度も見てきた美しい形をした、綺麗な淡紅色の唇からは「ん」と甘い吐息が漏れた。今度は一瞬ではなく、ずっと長く、触れ合わせるだけでもなかった。

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