酷い恋人
授業が終わり、HRも終わり、吉乃を迎えに一組の教室へ。こちらのクラスでもHRは終わっているようで出入り口は開かれている。響樹は引き戸の一歩手前で立ち止まり、少し心を落ち着ける。
迎えに行けば恋人が嬉しそうに微笑んでくれるので、この行為自体は響樹も楽しみにしている。しかし吉乃以外にも海と優月、その他にも昨年のクラスメイトだった知り合いが数人いるものの、余所の教室に入るのはどうも気後れしてしまう。
「吉乃さん」
意を決して足を踏み入れると、迎えてくれたのは恋人の優しい笑み。だけではなかった。
「待ってたぞ、響樹」
「待ってたよ、天羽君」
海と優月からこういう反応があるのは分からないではないのだが、似たような言葉が他からもいくつか聞こえた。
「何だこれ?」
「数学を教えてほしいそうです」
「俺に?」
「ええ。お願い出来ますか?」
尋ねてみると、吉乃は外行きの表情を作って首をほんの少し傾けた。
「別に構わないけど……」
文系クラスでも国公立志望であれば多くの場合受験に数学が必要になるが、響樹が教える必要があるのかという疑問が浮かぶ。違うクラスの響樹に頼むくらいであれば、吉乃が教えれば済む話だろうに。しかし――
「ありがとうございます、響樹君」
「どういたしまして、吉乃さん」
外行きの表情が少し崩れ、響樹のための笑みが浮かぶ。代価としてはこれ以上無いものをもらってしまい、疑問などはすぐに消える。
「じゃあ響樹。早速この前の実力テストの問題の解説頼む」
「問題はこれね」
海が教卓へと促し、優月が問題用紙を手渡す。視線を落とすと、当然だが理系の試験とは違う問題が印刷されており、最後の大問に矢印付きで『コレ』と書かれていた。
「…………何分くらいで解説すればいい? 問題解いて見せるだけなら5分でいけるけど、分かりやすく見せるなら15分くらい欲しい」
「初見の難問5分で解けるのかよ……」
「と言うか答えはもう出てる。書くのに時間がかかる」
「うわぁ変態だ」
小声で相談すると海は肩を竦め、優月は何やら失礼な事を口にする。
「おーいみんな。響樹が15分あれば完璧な解説してやるって言ってるけど、そのくらいでいいか?」
「そうは言ってねえよ」
海の呼びかけに対し、教室の前の方に集まった本日の生徒たちが口々に――響樹の言葉は無視して――肯定の意を示す。後ろの方にも何人かいるが、あちらは教わりたい訳ではなく興味本位といったところだろうか。
因みに吉乃は一番後ろの自席から動かず、優しく目を細めながら響樹を見つめていた。
(情けないところは見せられないな)
答えを伝えるだけでは当然駄目だ。きっちり理解して帰ってもらわなければ、せっかく教わりに来た者たちの時間を無駄にするし、吉乃にだって肩身の狭い思いをさせる。
そして何より、やはり吉乃には少しでもいいところを見せたいのだ。
◇
「凄いな天羽。先生よりよっぽど分かりやすい」
「ねー」
予定通りの15分で解説を終え、そこから10分程の質疑応答タイムも経て、参加者からは満足の声が聞こえた。解説中の反応や表情を見ても、全員に理解してもらえたと判断していいだろう。しかし一つ訂正はしておかなければならない。
「それは無いな。先生の方が分かりやすく教えられるよ」
「そうかぁ?」
「同じ時間をかけていいならな。先生はもっとずっと上手くやるはずだ」
これは謙遜ではない。響樹個人が思うだけでなく吉乃も同じ事を言っていたが、この学校の教師陣は優秀なのだ。教えるという点に関して響樹では足元にも及ばない。
「それでも響樹の教え方は上手いと思うけどな……まあとにかく、サンキューな響樹」
「ああ。まあこれくらいなら別にな。毎日やれって言われたら困るけど」
「ありがとね。黒板消すのはこっちでやっとくから、天羽君は吉乃のエスコート」
「それは言われなくてもするけど」
「はいはい」
軽くあしらう優月に背中を押される最中、海が「それじゃみんなで響樹先生にありがとうございましたして終わろうか」などと軽薄な笑みとともに言い出すので、響樹は吉乃を攫って逃げるかのように教室を出るはめになった。
「お疲れ様でした、響樹君」
「最後の最後のでだいぶ疲れたよ」
昇降口を出た所で吉乃が労いの言葉をくれた。肩を竦めて返すと、彼女は口元を押さえてくすりと笑い、「お礼くらい聞いてあげてもよかったのではありませんか?」と小首を傾げた。
「面白がってるだろ」
「ええ。慌てた響樹君が可愛かったので」
「酷い彼女だ」
「ごめんなさい」
ふふっと笑いながらの吉乃が響樹を見上げながら手を取るので、そのまま繋ぎ、学校の敷地を出た所で指を絡めた。同時に、吉乃の華奢な体が更に半歩分響樹へと近付く。
「でも、本当にありがとうございました。急なお話だったのに快く引き受けてくれて。解説もとても分かりやすかったですから、皆さんとても感謝していると思いますよ。興味半分で残っていた人たちも、最後には真剣に聞いていましたし」
それは響樹にも見えていた。半身だった体勢がこちらに向いてきた時は内心でよしと小さなガッツポーズをしたものだ。ただ、それ以上にもっと嬉しかった事がある。
「いいところ見せられたか?」
「ええ、もちろんですよ」
上目遣いで破顔した吉乃の語調が、僅かだけではあるがいつもより強い。
「皆さんの反応も良かったでしょう? あれだけの解説をしてもらえたなら、いいところを――」
「そうじゃなくて。吉乃さんに」
「え?」
もちろん、解説の最中に何度も見ていた。一番後ろの席から、嬉しそうに響樹を見つめてくれていた吉乃を。だから、今回の件で吉乃に満足してもらえた事が嬉しかった。
そして、一番嬉しかったのは更にその後。
「花村さんが最後に言ってたよ。俺の背中推しながらさ」
それは響樹が最初に抱いた質問の答え。
「吉乃さんが言い出したんだろ? 教えてくれって言ったクラスメイトに、俺に教わったらどうかって」
「あ……優月さん……」
西日が差すのは背中側から。だから吉乃の端正な表情が染まるのは、そのせいではない。
いつもよりほんの少し興奮ぎみで響樹を見つめていた顔が逸らされる。その一瞬前に、唇が可愛く尖ったのも見逃していない。
「『みんなに彼氏のいいところ見てほしかったんだと思うよ。可愛いよね』だってさ。という事で、どうだった?」
響樹でなければ気付けなかっただろうが、吉乃が普段と違う様子だった事がその答えで、響樹にはもう分かっている。ただ、彼女の口から聞きたかったのだ。
「……酷い彼氏です」
「そう言う反応が、いや。そういう反応も可愛いからなあ」
響樹に顔を見せないままでぽつりと呟き、絡めた指にお仕置きとばかりに力が加えられる。
それなのに、二人の距離はそのまま。恥ずかしがって反対を向いているのに、吉乃は響樹から離れようとはしない。無言のままで歩を進めても、その時間が温かい。
「いいところは、いつでも見せてもらっています」
「なら良かった」
まだ顔をこちらに向けてはくれないが、小さな声は透き通っていて、静かな通学路の中で吉乃の想いがすっと沁み込んでくるような気がした。
「もちろん、今日も。私の彼氏はこんなにカッコいいんだって、誇らしかったですよ」
振り向き、茜に染まった優しい笑みを響樹に向け、吉乃はそのまま踵を上げる。ほのかに甘い香りが少し強くなった知覚したのは多分、頬にやわらかな感触が触れた後。
「な、外で……」
「私は酷い彼女なので。可愛いですよ、響樹君」
夕焼け色の吉乃がいたずらっぽく笑い、響樹の頬、先程彼女の唇が優しく触れた場所に、そっと指を這わせた。
酷い恋人対決、今日のところは響樹の完敗だった。
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