トレーニング部位

「そう言えば短距離走ってどんな練習するんだ? やっぱ走ればいいのか?」

「走る事も必要ですけど、フォームのセルフチェックが出来ないと効果は薄いですし、筋力トレーニングから入ってはどうでしょう?」

「筋トレか。ちょっとずつやってはいるけど、短距離だとどの辺を鍛えればいいんだ?」

「基本的には当然ですけど下半身全般ですね。それから腸腰筋という腹筋群の筋肉も実は重要なんです」

「へえ。腸腰筋ってのは聞いた事無かったな」

「……そうですね。私も短距離走に出場しますから、せっかくですし、夕食後に一緒にトレーニングをしませんか?」


 帰り道でさりげなく尋ねてみたところ、響樹にとっては嬉しい結果となった。


「そろそろ始めましょうか」

「了解。よろしく頼む」


 夕食とその片付けを済ませ、少しの間勉強をしてから約束のトレーニングタイム。


「はい。着替えてきますので少し待っていてください」

「……ああ」


 平静を装ったつもりではあったが、くすりと笑ってソファーから自室へ移動していった吉乃には筒抜けだったようだ。

 響樹は家で着替えてからこの部屋にお邪魔した訳だが、吉乃は制服姿のまま。当然そのままの恰好で運動などされてはむしろ響樹が困る、主に目のやり場に。困るのだが、彼女の唇から飛び出した着替えという単語にも、思いのほか困らされたのだ。どうしても先日泊まらせてもらった時の記憶が蘇る。


(落ち着け。今日はそういうのじゃない)


 せっかく吉乃が時間を作ってくれたのだから、集中は万全でなくてはならない。そしてそれ以上に、体を動かす際に雑念があっては怪我をしてしまうかもしれない。もしそうなれば吉乃は深く責任を感じてしまう。そんな事があってはならない。

 目を閉じて深呼吸を繰り返しながら心身をリラックスさせていると、扉が開く小さな音が聞こえた。


「お待たせしました」

「全然。あとそれから、似合ってる。格好も、髪型も」


 普段料理の時にまとめるのとは違う、長く綺麗な黒髪を後ろで一つに結んだスポーティーな髪型も、普段の印象とはだいぶ違うが吉乃の凛とした面を強調したようで新鮮だ。

 腕と脚に一筋の白いラインが入った黒いジャージという装いも、そんな髪型とぴったりと調和していて、スラリと背の高い彼女を美しく、カッコよく見せてくれる。


「ありがとうございます」


 嬉しそうに目を細め、少し頬を緩め、それでいて恥ずかしさもあるのか僅かに眉尻を下げている。結んだ髪に調整するような触れ方をしたのには照れ隠しも入っていたのだろう。可愛らしくて雑念を潰すのにも一苦労である。


「では始めましょうか。まずは準備運動から」


 響樹の方も顔に出てしまったのか、吉乃が可愛らしい咳払いを一つ見せ、表情を少し引きしめた。


「ストレッチすればいいのか?」

「ラジオ体操のような体を動かす運動の方がいいですね。体育の授業は実は理に適っているんです。ストレッチも短時間であれば効果的ですけど、運動前にやり過ぎると逆効果になりますから」

「へえ、そうなんだな。運動前ってストレッチのイメージだったよ」


 響樹の疑問に対し、恋人の中に少し姉の顔を加えながらの吉乃が楽しそうに解説をしてくれる。僅かなくすぐったさはあるが、楽しそうな彼女を見ると響樹の心は踊る。


「所謂ストレッチは運動後がおすすめです」

「なるほどな。参考になる」

「でしたら良かったです」


 顔を綻ばせた吉乃が少し首を傾けると、一つ結びのせいか普段より少し大きく髪が揺れた。


「それではそろそろ始めましょうか」

「ああ」


 そこからは10分程、普段吉乃がしているという準備運動を教えてもらいながら実践したが、彼女のフォームが綺麗で見惚れかけた事の他、近距離で教えてもらう事もあり、やはり雑念に勝利するのは大変だった、前半は。準備運動ではあったが終える頃には少し走った程度には体が温まっており、そのおかげか途中から余計な考えを抱く事も少なくなっていた。


「準備運動でもしっかりやるとだいぶ違うんだな」

「本格的な運動の前の慣らし運転ですからね。体が温まらない程度ではあまり意味が無いんですよ」

「なるほどな」


 少し荒くなった呼吸を整えながらの響樹に、吉乃が微笑ましい物を見るような視線を送ってきていた。ただそんな彼女の細い肩も、ほんの少し上下に動いていて少し安心する。多分体力的にそれ程差は無いのだ。男女差を考えたらそれでも情けない話ではあるが。


「なんか体軽い気がするよ」

「何よりです。では体が冷えない内にトレーニングに入りましょうか」

「ああ」

「では響樹君」


 またもどこか嬉しそうに姉の顔を覗かせる吉乃がそこで言葉を切る。


「トレーニングで一番大切な事は何でしょうか?」

「……負荷とか?」


 満足げにニコリと笑った吉乃が首を振る。響樹がこう外す事を想定していたかのようだ。


「正解は正しいフォームです。負荷を上げる事よりもずっとトレーニング効率が上がりますし、何より怪我の防止に繋がります」

「なるほど。確かに最重要だな」

「ご理解いただけて何よりです。ですので、今日は響樹君に正しいフォームを覚えてもらうところからスタートです」


 いたずらっぽく笑った吉乃はそう言って一歩響樹との距離を詰める。普段と違う、恐らく制汗剤の爽やかな香りが、今日の彼女のイメージにぴったりで、準備運動のせいとは違う鼓動が強くなる。


 吉乃曰く、正しいフォームでトレーニングを行う事で、鍛えたい部位に重点的に負荷をかけられるそうだ。実際、フォームを意識してのトレーニングは普段響樹が一人で行うものよりもずっとキツイものであった。

 ただ、マンツーマン指導の吉乃が度々響樹に触れるものだから、明日一番筋肉痛が酷そうなのは表情筋な気がしている。

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