予定を一つだけ

 手帳を購入したその足で吉乃の部屋へ。ブレザーを脱がせてもらい、ネクタイを外してもらうのも慣れたものだ。あくまで行為そのものは、である。胸の高鳴りはいまだ健在だ。


「さて、約束だったよな」

「ええ」


 ソファーに座って少し落ち着いたところで買ったばかりの手帳を取り出すと、吉乃も鞄から自身の手帳を取り出した。響樹の方はシンプルな黒カバーで、中身はまっさら。今日これから、彼女と初めての予定を書き込む。

 決めておいた予定は二人での外出。簡単に言ってしまえばデートであるのだが、手帳に『吉乃さんとデート』と記す行為を改めて考えてみると、胸が温かくなると同時に顔が熱くなる。


「じゃあ……」

「はい」


 宗介から貰った揃いのボールペンを互いに手に取ると、吉乃は嬉しそうに目を細めて自身の手帳に視線を落とした。普段サラサラとペンを走らせるのとは違い、吉乃は一文字一文字をしっかりと丁寧に、噛みしめるように記していく。


「響樹君。私の方ばかり見ていないで、響樹君も書いてくださいね」

「ああ、悪い。横顔が、いや、横顔も綺麗で見惚れてた」

「……そういう事を言っても誤魔化されてあげませんよ」

「誤魔化すも何も本心だからな」

「……字が歪んでしまったら責任を取ってもらいますからね」


 本心は伝わってくれたらしく、ふいっと視線を逸らした吉乃の綺麗な横顔がほんのりと色付く。


(さて)


 見惚れていたのは事実であるが、そろそろ自分もとペンを走らせる。しかしよくよく考えてみれば『吉乃』という文字を書く事自体が初めてで、何度も何度も読んだり見たりした名前なのに、自分の書いた二文字に意識が吸い寄せられる。

 残りの文字を書く前に少し気合を入れなければと緩んだ頬に力を入れ、ふっと息を吐いたところで視線を感じた。横を見ると吉乃がこちらに向けて優しく微笑んでいた。


「横顔もカッコいいなと思いまして。目が離せませんでした」

「意趣返しか」


 やわらかく微笑んだ吉乃は小さく首を振り、何よりも綺麗な長髪をさらりと揺らす。


「無いとは言いませんけど、私の方も本心ですよ。真剣な目をした響樹君からは、視線が外せません」


 照れくさそうに少し眉尻を下げてはにかむ吉乃から、響樹の方こそ視線が外せない。


「……字が歪んだら困るだろ」

「その時は責任を取りますよ。どんな事がいいですか?」

「やめろ。誘惑するな」


 優しくふふっと笑う小悪魔から、響樹は必死で視線を逸らした。



「いいな、これ」

「そうでしょう?」


 残りの文字を何とか歪める事無く書ききり、たった一つの予定を入れただけの手帳を、もう数分眺めている。それも二人で肩を寄せ合ってである。『吉乃』の二文字を書いた時にも少し思いはしたが、吉乃が意味も無く手帳を開いていたという気持ちがよく分かる。そして、彼女がこれだけ響樹を想ってくれていた事も。


「もっとたくさん私の名前を書いてもいいんですよ?」

「吉乃さんの手帳に俺の名前があるみたいにか?」

「ええ」

「そうだな。これから増やすけど、今日はこの一つだけでいい」


 自分の家に帰って見返し、もう一度、二度三度とこの幸せを噛みしめたいと思った。

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