お揃いの進級祝い

 宗介がどこに連れて行ってくれるのかを吉乃は知っているらしかったが、響樹には教えてくれなかった。ニコリと笑った彼女から「期待していてください」とだけ言われた訳だが、実際にはお値段が怖いなという気持ちの方が強かったのではないだろうか。

 そして辿り着いたのは回らない方の寿司屋で、高級店であるのは響樹からでも一目瞭然だった。


 宗介にとっては馴染みの店であるらしく、彼が店員と親しげに二、三言葉を交わした後で案内されたのは座敷の個室。

 ふすまを開けた先は畳敷きの部屋。壁は白く天井には間接照明、それから行灯を模した照明器具で和の雰囲気を壊さず室内は明るく保たれている。部屋の奥側は小さな床の間になっていて、そこにセッティングされた盆栽と掛け軸がまた高級感を醸し出していた。


「二人はそちらに座ってくれるかな?」


 案内の店員に何かを伝えて先に座敷へと上がった宗介は、部屋の中央にある四人掛けの卓の上座側の座布団に腰を下ろした。

 相変わらずの落ち着いた笑みを浮かべる宗介は、そう言って手のひらで自身の向かいを示す。


「今日は進級祝いだと言っただろう? 二年生になった二人の顔を見ながらの食事とさせてほしい」

「分かりました。そうさせてもらいましょう、響樹君」


 響樹が答えを出すより早く、吉乃がやわらかな笑みで宗介に頷き響樹を促す。「顔が変わった訳でもありませんけどね」と耳元で囁いてくれたのは緊張をほぐすためだろうか。

 そんな吉乃にどこか嬉しそうな笑みを向ける宗介も、恐らく響樹に気を遣った配置を提案してくれたような気がした。


「ありがとうございます。失礼します」

「足も気にせず崩してくれ」


 対面の宗介は腰を下ろした時点から足を崩しているが、隣の吉乃は惚れ惚れする程に綺麗な正座の姿勢。その顔には私の事は気にしなくてもいいですよと言いたげな優しい笑みが浮かんでいるが、耐えられる限りは崩すまいと決めて背筋を伸ばした。


「いえ……このままで、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


 隣の吉乃がそっと口元を押さえ、これまた優しく目を細めた。


「分かった。くれぐれも遠慮はしないでくれよ」

「はい、ありがとうございます」


 ふっと笑った宗介に軽く頭を下げる。


「吉乃から天羽君は好き嫌いが無いとは聞いているが、食べたい物の希望はあるかな?」

「いえ、特には」

「では店に任せてしまおうか。もちろん食べたい物ができたらその都度言ってくれれば追加出来るよ」

「ありがとうございます」


 値段が怖いので追加はしないと思う。そういった意味でも緊張が増す訳なのだが、ちらりと窺った吉乃はそんな響樹に微笑ましいものを見るような視線を送ってきていた。



「さて、それでは」


 適当な世間話をしている内に寿司下駄に載せられた何種類もの寿司が運ばれて来た。

 回る方の寿司屋と比べて一回り程大きいなというのが響樹の印象である。照明の影響なのか、鮮度や元々の質の違いなのか、見た目も明るく味への期待感も高まってくる。


「吉乃、天羽君。進級おめでとう。高校に入学して1年、二人が健やかに過ごし、こうやって新たな年度を迎えてくれた事を本当に嬉しく思う。学業面にしても生活面にしても、二人には私の忠言などは不要だろう。この1年、二人の高校生活がより良いものになる事を祈っている。そしてまた来年、同じ事を言わせてほしい。最後に一つ、もしも何か大人の力が必要な事があればすぐに相談してほしい。吉乃はもちろん、天羽君も」


 表情を引き締めた宗介は、本来は吉乃だけに向ける言葉を響樹にもかけてくれた。

 温かな言葉であると思った。自然と頭が下がるというのは今のような状態なのだろうと、吉乃と同時に「ありがとうございます」の言葉を発した後で理解する。


「さて、堅苦しい話は終わりにして食事をいただくとしよう」

「ええ。それではいただきます」

「ありがとうございます。いただきます」



 店からの帰りも宗介の車で送ってもらっている。行きと違うのは既に吉乃を降ろした後であり、響樹が助手席に座っている事。


「今日はありがとう。わざわざ時間を作ってもらって悪かったね」


 当然ながら日は完全に落ちており、普段響樹と吉乃が歩く道を照らすのはいつも通りの街灯と細々とした月と星の光、そして今日に限っては車のヘッドライト。

 幅の狭い道を、宗介は速度を落として車を走らせている。それでも歩いて15分の道のりは、1分と少しで半分を過ぎた。


「とんでもないです。ご馳走していただいた事はもちろんですけど、こうやってお祝いしてもらえる事も嬉しいですし、節目だという事を実感出来て身が引き締まります。改めてですけど、本当にありがとうございます」


 食事中何度も口にした事だが寿司は大変に美味であったし、今言った通り進級を祝ってもらえたのも嬉しかった。

 進級など普通にしていれば出来るものであるし、感慨などは湧かないものだと思っていた。しかし宗介にかけてもらった言葉は、そうではないと教えてくれた。

 進級というのは自身が1年を無事に過ごしたという証明のようなもので、親の立場に立ってみるとまた少し違って見えるのだろうと知った。自分にとっては当たり前でも、それを喜んでくれる人がいるというのは幸せな事だと思える。後で両親に感謝を告げておこうと決めた。


「君は……」


 宗介がそこで言葉を切ったので運転席を窺うと、暗い中ではあるが彼が苦笑のような表情を浮かべているのが分かる。


「吉乃もそうだが、天羽君も年齢からしてみればだいぶ大人びているな。私が高校生の時はもっと子どもだったように思うよ」

「今は取り繕ってるだけです。僕は吉乃さんに比べればまだまだ子どもですよ」


 生活費の出処が全て両親にあるとはいえ一人暮らしをして、元々自分の事は自分でする響樹ではあったが、生活面では随分と成長した自覚はある。その他で見ても、おそらくこの1年で成長出来た部分は多いのではないだろうか。

 ただ、生活面では良い師に恵まれ、その他の面での成長も一生ものの良縁によるところが大きい。響樹には時々子どもっぽい一面を見せてくれ、それがたまらなく可愛らしいのだが、それでも吉乃は響樹よりもずっと大人だ。同い年、生まれで言えばむしろ響樹の方が半年早いというのに。


「謙遜しなくてもいい。そういうところもかな」


 隣から小さな笑い声が聞こえ、車の速度が更に落ちる。斜め前にはもう響樹のアパートが見え、それが真横になるのにほとんど時間は要しなかった。


「それに吉乃は、昔から大人びた子どもではあったが、今のようにさせてしまったのは間違いなく私のせいだ。あの子が子どもでいる時間を奪ってしまった」


 表情は見なかったが、静かな声は間違いなく後悔によるものだろう。

 身内の吉乃を先に降ろしたのは道順だけが理由ではないと思っていた。そしてやはり、何かしらの話があるという推測は正解だったらしい。エンジンをかけたまま、宗介は車をアパート側に寄せてハザードランプを灯した。カチ、カチと規則的な音が車内に響く。


「いや、すまない。この話が出来るのが君だけなものだから、ついついね。こういった話をしたくて時間を貰った訳ではないんだ」


 しかしすぐに明るい声がそんな音を上書きする。


「吉乃にも既に渡してあるんだが、私からの進級祝いという事で、もう一つ受け取ってほしい」

「ええと……」


 落ち着いた笑みとともに差し出されたのは手のひらから少しはみ出る程の大きさをした縦長の箱。

 気持ちはとても嬉しいのだが、既に高級と思われる寿司をご馳走になった後。実の娘である吉乃に対して贈るのはともかく、他人の響樹が形に残る物を貰ってもいいのだろうか。


「それ程高価な物ではないから遠慮しないでほしい。それに、中身は君専用だからね」

「僕専用?」

「ボールペンなんだがね。名前入りだから君以外の人には渡せないんだよ」

「……ありがとう、ございます」


 苦笑を浮かべながらの宗介が箱を更に差し出すので、響樹は頭を下げてそれを受け取る。ただやはり、そこまでしてもらっていいのだろうかという気持ちが残る。


「吉乃にも同じ物を、同じように名前入りで渡している。天羽君とお揃いだと言ったら嬉しそうにしていたよ。君が同じ物を使ってくれる事も含めて、吉乃への贈り物だと考えてくれると助かるな」


 上手な言い方だと思った。少なくともこう言われては断れないし、何より響樹にとっても吉乃と同じ物を、というのは嬉しい贈り物なのだ。


「そういう事でしたら、ありがたく頂戴します」

「助かるよ。恐縮させてしまって申し訳ないが、まだ色んな事に理由が欲しくてね。今後もこうやって君を口実にさせてもらう事があると思うから、許してほしい」

「……そこまではっきり言わなくても」

「前にも言った通りだよ。我ながらどうかとは思うんだが」


 響樹としてはその言いように苦笑が漏れてしまうのだが、宗介は吉乃に関する事で嘘や誤魔化しを口にしないと決めているらしく、彼本人も苦笑を浮かべていた。

 実際のところ響樹としても口実扱いしてもらえるのはむしろありがたい。もちろん宗介から響樹へのお祝いの気持ちがゼロではないのだろうが、純粋な厚意として捉えるよりは口実やおまけとしてもらった方が気は楽である。それに、これは信頼の証だとも思うのだ。


「僕は、吉乃さんが笑ってくれるならむしろ利用してほしいくらいです」


 きっと、響樹ならばこう考えると思ってくれたのではないだろうか。


「……そこまではっきり言われるとは思っていなかったな」

「……えぇ」


 空気の抜けたような声が出てしまった響樹に、宗介は「いやすまない」と口を押えておかしそうに笑う。


「私の娘は想われているな」

「それについては自信を持っていますので」


 返ってきたのは、落ち着いた笑みと、静かな「そうだな」の言葉だった。



 部屋に戻って宗介からのプレゼントを開けてみると、中に入っていたのは言葉通りのボールペン。「それ程高価な物ではない」らしいが、光沢のある黒塗りと、金で綴られた「Hibiki Amou」の文字がその言葉通りとは思わせてくれない。


『恐らく父としては本当に高価な物だとは思っていないのだと思いますよ。高校生が普段使いすると考えるか、社会人の贈り物として考えるかの違いですね』

「俺たちが普通に使うには高いって事だよな、やっぱり」

『そもそも高校生はボールペンを使う事自体が少ないですからね』


 電話の向こうから聞こえるのは落ち着いた声。それでいて普段の電話より少し弾んでいる。吉乃も響樹と同じように、宗介から貰ったボールペンを眺めているそうだ。


「ボールペンってある程度正式な書類書くのに使うイメージだよな。願書とか。あ、吉乃さんは手帳書くのに使うか」

『そうですね』

「俺も手帳買うかな。四月でちょうどいいし。お薦めとかあるか?」

『せっかくですから一緒に買いに行きましょう。細かな違いが多くありますから、響樹君が使いやすそうな物を選ぶのが一番ですよ』

「それもそうか。じゃあ、一緒に来てもらってもいいか?」

『ええ、もちろんです』


 優しい声が今までよりも弾む。恐らく自分の方も。

 そのまま明日の段取りを決め、吉乃は楽しそうに『響樹君』と名を呼んだ。


『明日響樹君が手帳を買うまでに、二人の予定を一つ決めましょう』

「ん? ……ああ。それまでボールペンは使わない方がいいか?」

『はい。そうしてもらえると嬉しいです』

「分かった。約束する」

『はい。お願いしますね』


 ボールペンを眺めながらの通話は、この後もしばらく続いた。

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