緊張とポイント稼ぎ
下りのエレベーターの扉が閉じてすぐ、設置された鏡で身だしなみを整えた。前髪を簡単に、そしてネクタイにも触れた。
「あ」
そこで自分の行いと、鏡越しに見えた吉乃に気付く。彼女は響樹の視線に気付くとふっと笑い、わざとらしく半眼を作り、唇をほんの少し尖らせながらじとっとした視線を送ってきている。
「私の事を信じているというのは口だけだったんですね」
「いや違うって」
いじけたような吉乃、響樹にはもちろんフリだとは分かる。ただそれでも、無意識下ではあっても自身の前言に反する行いをしたのは事実である。彼女が整えてくれた装いを確認する必要など無いと、本心からそう思っていたのに。
「ごめん」
「……響樹君は真面目ですよね」
軽くではあるが頭を下げると、吉乃がくすりと笑って目を細めた。
「いや、まあ……冗談なのは分かってるけどさ、でもやっぱり申し訳ないから」
「そういうところ、響樹君らしくて好きです」
やわらかな微笑みを浮かべた吉乃がスッとこちらに手を伸ばし、ネクタイと前髪にそっと触れた。
「これで最後に整えたのは私になりますから、響樹君は約束を破っていませんよ」
「助かるよ。ありがとう、吉乃さん」
「どういたしまして」
ほんの少し首を傾けながらの優しい笑み。それと同時に一階へと到着する。
「それに、逆の立場ならきっと私も緊張するでしょうから」
「まあ、な」
あまり表には出さないようにしていたつもりなのだが、やはり吉乃には悟られてしまう。だからもういっその事と、響樹は大きく息を吐き出してかご内から足を踏み出した。
「手を繋いであげましょうか?」
「分かってて言ってるだろ?」
「さあ? 何の事でしょう?」
響樹を見上げる吉乃がおかしそうにふふっと笑う。
実際に不安はあるので手を繋ぎたくはある。と言うよりも無くても繋ぎたい訳だが、流石に今はそういう状況ではない。何しろ――
「もう着いていたようですね」
「あの車か」
「ええ」
エントランスを出たところで吉乃の視線が向いた先には、セダンタイプの白い車が停まっていた。車種は分からなかったが、まあ高級車なのだろうというのは見た目と持ち主から想像がつく。
「車乗る時に靴脱いだ方がいいか?」
「そのままで大丈夫ですよ」
間抜けな質問をしたと思う。もしその必要があれば吉乃が事前に言わないはずが無いのだから。
ほんの少し眉尻を下げてくすりと笑った吉乃と並んで歩くと、視線の先の車から男性が降りて来た。長身痩躯に纏うスーツは以前とは違う、ピンストライプの入った濃いネイビーカラーで、少しやわらかな印象を受けた。
「こんばんは、天羽君、吉乃。今日は時間を取ってくれてありがとう」
「こんばんは。こちらこそ、お招きいただきありがとうございます」
緊張が消えた訳ではないが、大切な恋人の前で、その父親相手に無様は晒せない。車の前で朗らかな笑みを浮かべた烏丸宗介を相手に、響樹は丁寧に腰を折った。
「予定よりも早かったんですね」
「ああ。二人なら早く出てくるだろうと思っていたからな。実際そうだっただろう?」
「ええ、ありがとうございます」
親に対する言葉としてはまだ少し硬いような気もするのだが、やり取りのぎこちなさはほとんど感じない。吉乃曰く今更言葉遣いを変えられないとの事だ。
実際にあの一件以来響樹が宗介と顔を合わせるのは初めてであるが、吉乃は二度彼と会っているからか、多少の緊張こそ伝わるものの自然体に近い。
「天羽君。本当はもう少し早くこういった場を設けられれば良かったんだが、遅くなってすまないね」
「いえ、僕は何も気にしていませんので。ご都合もあるでしょうし、お誘いいただけただけでも嬉しいです」
あの後は響樹たちの試験が近くなったため宗介が気を遣って誘いを控えてくれたらしく、こちらの春休み期間中には彼の仕事の都合が中々つかなかった。その結果四月以降の会食になる事が決まったので、それならば進級祝いにと日取りが決まった形だ。
最初はそのような場であるなら親子水入らずの方がと思いはしたのだが、吉乃と彼女を通した宗介から強い誘いを受けた。恐らくではあるが、両親が国外にいる響樹に気を遣ってくれた面もあると感じたので、ありがたくお呼ばれする事を決めた。
「そう言ってもらえると助かるよ。さあ、そろそろ出ようか。乗ってくれ」
「はい」
運転席側に向かった宗介を見送ると、隣の吉乃がやわらかな笑みを浮かべて「行きましょう」と後部座席のドアに手を伸ばした。その細い手首を捕まえるのは本日二度目。
「吉乃さんは前」
吉乃が座る場所は二択であるが、一緒に後部座席にというのも、恐らく緊張している響樹に気を遣ってくれてだろう。
ぱちくりとまばたきを見せた吉乃がくすりと笑い、「大丈夫ですか?」と小さく首を傾げた。
「お父さんへのポイント稼ぎって事で」
実際にそういった側面もゼロではない。二人で後部座席に座るよりも印象はいいはずだ、多分。
「そういう事にしておきますね」
ふふっと笑って目を細め、吉乃は「ありがとうございます、響樹君」とほんの少し声を弾ませる。
「ただ言っとくけど、お父さんだけだからな。他の奴には絶対吉乃さんの隣は譲らない」
そう言ってから助手席のドアに手を伸ばすと、「はい」と更にもう少し弾んだ声が聞こえた。
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