今度は逆に

「さて、そろそろ行くか?」

「……そうですね」


 響樹の胸元から顔を起こし、壁掛け時計に視線をやった吉乃がほんの少し眉尻を下げた。しかし、同意こそ示したものの彼女は響樹の腕の中から出て行こうとはしない。


「もうあと5分」

「どっかで聞いたような言葉だな」


 可愛らしくふふっと笑い、吉乃はそのまま響樹に抱き着く力を少し増し、ほぼ同じタイミングで響樹も同じように少し強く抱きしめた。

 春休み明け初日という事もあってか、自分で思っていた以上に吉乃と離れていた時間を寂しく思っていたのではないか。少し情けなくはあるが、以前思った通り自分がそれ程までに彼女の事が好きで好きで堪らないのだという証明のようで、照れくささの中に確かな喜びを感じる。


(吉乃さんもそうだといいな)


 朝響樹が口にしたのと同じ言葉を使いたかった事も理由なのだとは思うが、吉乃がこういった甘え方をするのは珍しい。

 だからその気持ちの源泉が響樹の今感じているものと同じだと嬉しいと、吉乃に寂しい思いなどしてほしくないのにそう思ってしまい、愛おしさの中に少しだけ申し訳なさを混ぜて彼女の髪に手を伸ばした。


「響樹君」


 心地良さそうに少し目を細め、吉乃は優しい声を響樹へと届ける。呼びかけではなく、恐らくただ呼んだだけ。だから響樹も「吉乃さん」と名前を呼び、嬉しそうに笑う彼女の髪を撫で続けた。

 そしてやはり、幸せな時間が過ぎるのは早い。


「今度こそそろそろですね」

「だな」


 支度の時間にも余裕を持たせたいところであるし、何よりこれ以上はやめ時を見失いそうだ。

 名残惜しさを覚えつつも吉乃に頷くと、彼女の方も同じだったのだろう、困ったような笑顔を見せる。それがまた愛らしくてそっと顔を寄せると、大きな瞳にまぶたが蓋をした。


「さて」


 触れ合わせただけの唇を離し、ゆっくりと吉乃の体を起こした。自身の唇を指先だけでそっとなぞるように触れてはにかむ吉乃に手を伸ばしかけ、強く自制しながら響樹も立ち上がる。


「失礼しますね」

「頼むよ」

「はい。お任せください」


 制服の吊るされたハンガーの前で、吉乃が嬉しそうに藍色のネクタイを手に取った。もちろんそれは響樹の物だ。


「もう一回結びたかったのか?」

「それもありますけどね」


 ネクタイを結び終えた吉乃の楽しそうな顔に問いかけてみると、彼女はくすりと笑いながらハンガーからブレザーを外し、「次はこちらも」と響樹に袖を通してくれる。


「外してみたかったんですよ。朝私が結んだネクタイだったので尚更ですね」

「そういうもんか?」

「そういうもんです。朝の答えと一緒に、いつか教えてあげますよ」

「そうか。楽しみにしてる」

「ええ……はい。出来ました」


 ブレザーのボタンを留め、最後にもう一度ネクタイをキュッと整えた吉乃が、視線で苦しくないかを尋ねてきた。


「ああ、大丈夫。ありがとう」

「どういたしまして」


 そう微笑んで自分のブレザーに手を伸ばした吉乃の手を、響樹は捕まえた。


「響樹君?」


 首を傾げる吉乃に言葉では答えず、響樹は彼女が手を伸ばした先にある紺色のブレザーに手を伸ばした。


「あ」

「今度は俺の番だな」


 脱がす方はまだ心理的なハードルが高いが、着せる方ならばきっと大丈夫だろうと手に取った吉乃の制服。

 ただ実際に手に取ってみると身長差以上にサイズの違いを感じ、女の子の服なのだという実感が強まった。


「……お願いします」

「……ああ」


 何とか平静を保とうとはしたのだが、恥じらいを見せる吉乃の姿にそれも吹き飛ぶ。伏し目がちにしながらちらちらと向けられる上目遣いの視線は、頬をほんのりと染める朱色と合わさり破壊力が抜群だ。


「じゃあ、着せるぞ」

「はい……お願いします」


 そう言って後ろを向いた吉乃が髪を前の方に流す。髪が長いとこういう事も必要なのかと、少し感心してしまう。


「じゃあ、左から」

「はい」


 当然ながら他人に服を着せた事など無いので、お手本は吉乃だけ。上手に出来るか少し不安を抱えつつまずは彼女がそっと持ち上げた左腕に袖を通したのだが、自分で思っていた以上にスムーズに出来た。

 続く右腕も同様だったが、これは恐らくされる側の吉乃が上手にサポートをしてくれたからのような気がしている。もちろんそれでも彼女がしてくれた程は上手には出来ておらず、肩と裾を少し引っ張って調整が必要だったのだが。


「じゃあ、ボタンも留めるな」

「はい」


 声をかけた響樹に応じて吉乃が髪を元に戻して振り返り、手櫛で軽く整えた。つい見惚れてしまった響樹に見せたはにかみは、まだ温かい色をしている。


(ボタンはやめとけばよかった)


 位置が違うので触れてしまう事は無いだろうが、真正面からではどうしても意識させられてしまうのだ、スレンダーな体でありながらそれなりの主張をする胸元を。

 そんな考えを悟られぬよう、震えそうになる指先を気合で抑え、じっと自信を見つめる吉乃の視線の中で響樹はやりきった。幸せな時間ではあったはずなのだが、今度はだいぶ長く感じてしまうのだから不思議なものだと思う。


「ありがとうございます、響樹君」

「どういたしまして。確認してくれ」


 まだ顔は赤いままではあるが、吉乃は普段通りを取り戻しており、やわらかな笑みを浮かべた。

 響樹の方もとりあえず一息つき、跳ね回る心拍を悟らせない程度の顔は出来ていると、自分では思っている。


「必要ありませんよ。響樹君がしてくれたんですから」

「恨み言は聞かないぞ……って言いたいところなんだけどな」


 しっかりと整えたとは思うし、朝とは逆のやり取りもしたいところなのだがそうはいかない。


「その内もっと上手くなって必要無くしたいとは思うけど、今日のところは頼む」

「はい……分かりました。でも、今の言葉はちゃんと覚えておきますからね」

「ああ」


 まばたきを見せた後で頬を綻ばせた吉乃を洗面に向かわせてから、自分自身中々大胆な事を言ったなと響樹は少し恥ずかしくなった。だが、後悔は一切無かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る