雨の予報と彼女の想い

 これは凶器だと、そう思う。

 女性としては背が高めでありながら非常に華奢な体は腕の中にすっぽりと収まるのに、響樹の胸に顔を埋めた吉乃は心地良いやわらかさを兼ね備えている。

 もちろんそんな事は誰より知っているが、しかし今日は少しばかり事情が違う。


 自分にだけ見せてくれる寝間着姿、普段よりも更に艶やかでしっとりとし濡羽色の髪、そして何よりも、日中よりも強く甘いバラの香り。全てが相まって強烈に、甘美に、響樹を攻め立てる。

 近い距離で感じる事にも慣れたはずの吉乃の息遣い一つにさえ、強い感情を覚えてしまう。今日はそういう事をするつもりで来ていないし、準備も無い。だというのに、腕の中で存在感を放つ凶器が響樹の理性を粉々にしかけていた。


(流石にそろそろまずい)


 もちろんたとえ理性を砕かれようとも吉乃に対して不埒な行いをする事はあり得ない。そこには絶対の自信がある。だが、そのような状態になった自分を彼女に見られたいかと言われれば断じてノーなのだ。

 少しだけ腰を引き、身を切る思いで吉乃の細い肩を優しく押し戻す。もっとずっとこうしていたいのに、いつもこうだと少し歯がゆく思う。


「おしまいですか?」


 対して響樹の胸からゆっくりと顔を離していった吉乃は、目を細めて緩やかに口の端を上げた優しい笑みを浮かべ、ほんの少し首を傾げた。そしてその後わざとらしく口を尖らせ眉根を寄せる。

 手のひらはいつの間にか響樹の左胸に置かれており、中身が跳ね回っている事も明らかにバレているだろう。吉乃がかすかに頬を緩ませ、そして引き締めた。


「今からそんな事でどうするんですか」


 少し呆れたようにしながらも、瞳を潤ませて熱を残したままの顔からは吉乃のはじらいが伝わってくる。普段と違う抱擁に――響樹とは種類が違うだろうが――彼女の方もいつも通りではいられなかったのだと。


「今晩は、私を抱きしめてくれたままで寝る、という約束でしたよね?」

「……確かに言ったな」


 正確には響樹が口にしたのは「抱きしめたままで寝たい」であると記憶している。吉乃が記憶違いなどしているはずもなく、「抱きしめてままで」という言いようには、彼女の思いがこもっているのだと感じられた。


「寝る時の楽しみを減らしたらもったいないだろ?」


 先延ばしのような発言ではあるが、吉乃の言葉と思いを受けた響樹の本心だ。抱きしめ合って、互いにふれ合いゼロ距離で言葉を交わす。あまり格好の良くない姿も晒してしまうだろうと思うが、それでもきっとこの上なく幸せな時間になる。今慣らしてしまってはもったいない。


「ああ言えばこう言うんですから」


 わざとらしくため息をついてみせてから、吉乃はふふっと笑って「今はこれで我慢してあげます」とまぶたを下ろしてほんのりとした赤さが残る顔を少し上向かせた。


(こっちが我慢できなくなるんだが)


 幸いにして吉乃が求めているのが深い方でない事はわかるが、ほんの少し唇を触れ合わせただけでも、血流が早さを取り戻していく。


「寝室に行きますか? 日が変わる頃からは雨の予報ですし、気温も下がりそうですよ」


 響樹の内心を知ってか知らずか、ぱちりと開いた目を優しく細め、吉乃が僅かに首を傾げる。


「そうだな……そうさせてもらうか」


 本音を言えばもう少し心を落ち着けたいと思うのだが、微笑みを浮かべた吉乃が早くそうしたがっている事が伝わってくる。後先など考えずにその気持ちに応えたいと思うのだ。


「雨に感謝ですね」

「ん?」


 白いカーテンで閉ざされたベランダへと視線をやった吉乃が顔を綻ばせた。

 吉乃の視線を追ってカーテンに目を向けた響樹にふふっと笑い、彼女はソファーから立ち上がりゆっくりと窓へと歩き、カーテンを少しめくって「まだ降ってはいませんけど」と呟く。


「響樹君。私がどうして雨が好きかわかりますか?」


 後を追った響樹を振り返り、吉乃は楽しそうに首を傾げた。


「なんでだ? 落ち着くから、とか?」

「それも無い訳ではありませんけどね」


 くすりと笑った吉乃がもう一度窓の外へと視線を向けるので、響樹もそんな彼女に顔を近付けて一緒に外を覗く。吉乃の視線が外から響樹へと向き、その顔にはにかみが浮かぶ。


「普段は折りたたみの傘を鞄に入れているんです」

「準備いいもんな」


 前後の繋がりはよくわからないが、吉乃らしいと思う。そんな感想に「ありがとうございます」と目を細めた彼女が再び窓の外へ視線を向ける。


「それがある時少しの不運もあって壊れてしまいまして、ネットショッピングで注文をしたんです。しばらく晴れの日が続くから大丈夫だろうと思って急がなかったんですが、そうしたら次の日に予報に無かった雨が降って、流石に恨めしく思いましたね」

「それって」


 その『次の日』がいつなのか、響樹は知っている。

 苦笑の吉乃がまた響樹に視線を戻し、「あの時は、ですけど」とくすりと笑った。


「あの日の雨が無かったら、今こうしていられなかったな」

「ええ」


 再度の回答は正解だったようで、吉乃が目を細めながら響樹に体を寄せた。

 そんな吉乃の腰を抱き寄せると、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせながらくすりと笑う。


「後の楽しみが減ってしまうのではありませんでしたか?」

「そうだけど、今は愛おしいって気持ちが勝った」


 以前から雨が好きだと言っていた吉乃。そしてその理由が響樹にあるというのだから、彼女が口にしてきたその言葉には常に響樹への想いが込められていたのだ。愛おしいと思わない事など不可能である。


「もう。そうやってまた恥ずかしい事を言うんですから」


 響樹の胸にこつんと頭を触れさせた吉乃の声に呆れた様子は無く、あるのは透き通った優しい音色。


「今日、明日になるかもしれませんけど。雨の日をもっと好きにさせてください」

「ああ、任せとけ」

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