意思表明

 日が変わる頃から雨が降る。そんな予報よりも少し早く、優しい雨音が耳を打つ。


「最初に髪に触らせてもらった日も雨降ってたな」

「ええ。あの時から、優しい触り方は変わっていませんね」


 並んでベッドの縁に腰掛け、そっと濡羽色の髪に指を通すと、吉乃が少しくすぐったそうに目を細めた。


「あの頃よりもずっと上手にはなっていますけど」

「……もしかして最初の頃、何か嫌だったか?」

「そんな事がある訳無いでしょう」


 くすりと笑った吉乃が響樹に上目遣いの視線を向け、肩に軽く寄りかかる。


「初めての時から優しくて、響樹君に触れられるととても心地良かったですよ。今はもっと、という意味です」

「そういう事か。心臓止まるかと思ったぞ」

「すみません」


 響樹の左胸に手のひらを当て、吉乃がふふっと笑う。そんな彼女の髪を梳き、頭をそっと撫でる。

 言われてみて思うが、これほど優しい手つきで何かを触る事など他ではあり得ないだろう。単体ですら芸術品の長に美しいのに、響樹にとって何より大切な吉乃の、そんな彼女の自慢の髪なのだ。無理も無い話である。


「まあでも、吉乃さんが前より心地いいなら良かったよ」

「ええ。以前よりも響樹君をもっと好きになった事が一番大きな理由だとは思いますけど」


 肩から頭を起こし、吉乃はほんのりと朱の差したやわらかな微笑みを響樹へと向け、まぶたを下ろす。

 頭を撫でる手を少し動かしながら、そっと触れた吉乃の唇を優しく食む。かすかな声と共に感じる息遣いや、響樹の胸に置かれた手のひらに僅かだけこもる力が彼女の心地良さの証明であると分かり、少し熱が入った。


「やっぱり」


 熱が入り切ってしまう前に顔を離すと、吉乃がぱちりと目を開き、先ほどまでよりも赤い顔にはにかみを浮かべる。


「響樹君がこなれたと言いますか、女たらしになった事も大きな要因だと思います」

「人聞きの悪い」

「私しか聞いていませんよ」

「ああ言えばこう言うな……まったく」


 ある程度否定できないのは確かなのだ。響樹も吉乃とする色んな事に慣れてきた自覚はある。

 髪に触れながら吉乃の反応を見る余裕もいつの間にかできているし、口付け一つとってみてもただ触れ合わせるだけに留まらなくなっている。新しいキスのしかたを練習もした。だが――


「俺は女たらしじゃない」

「……ええ、そこだけは訂正しておきます」


 一瞬目を丸くした吉乃だが、まっすぐに見つめた響樹の意図は明確に伝わったらしい。

 机に飾ってある響樹が送ったプリザーブドフラワーに視線をやった後、色付いた頬が少し緩んだ。


「響樹君には私だけ、ですからね」

「分かってるならいいけどな。大体、吉乃さんだって随分慣れただろうに」

「ええ。響樹君のおかげで」


 ニコリと笑った吉乃はしなだれかかるように響樹へと体を預けた。甘い香りの強さにも慣れたと思っていたが、こうやってやわらかな重みが加わると途端に心臓が跳ねる。

 それでも、吉乃のしたい事が分かるのだから、響樹は自分の理性に鞭を打ちながら彼女の華奢な腰元へと手を回した。


「倒すぞ」


 胸元に預けた頭を少しだけ動かし、吉乃が肯定を示す。

 ゆっくりと二人の体を倒すと、以前と同じでスプリングの良く聞いたベッドの寝心地の良さを感じる。しかし今はあの時以上に、腕の中にいる吉乃の存在がずっと大きい。


 火のついたような顔、そして少し散らばった艶やかな髪が、まるで吉乃を押し倒したような錯覚を響樹にさせる。そんな状況でも、白いパジャマとのコントラストがとても綺麗で、どちらの意味でも目が離せない。

 吉乃の方も、潤んだ瞳はまっすぐに響樹へと向けられ、そしてゆっくりとまぶたでふたをされる。

 腰に触れた手に少し力を込めて抱き寄せると、吉乃も響樹へと腕を伸ばして首の後ろへと回し、唇を触れ合わせた。

 今度は、そっとなどとはけっして言えない。


「吉乃さん」「響樹君」と、荒い吐息に乗せて声になっているかも妖しい音で互いの名を呼び合い、それでも互いに届いている事は疑う余地も無かった。

 触れ合わせ、食みながら、そこから更に一歩進んだ口付けを交わす。練習の時よりもずっと熱の入った行いで、自分自身を溶かされていくような感覚すら覚えてしまう。


 どれだけの時間をそうしていたのかという感覚はまるで無かった。

 どちらともなく顔を離すと、いつの間にか二人の間に隙間は無くなっていて、肩を上下させて息を整える真っ赤な顔の吉乃がそこにた。


「吉乃さん」


 名前を呼び、今度こそ触れ合うだけのキスを落とし、響樹は僅かに腰を引く。情けない事に、今になってようやく自身の状態を自覚した。

 しかし吉乃がそれを許してくれない。響樹が引いた分身を寄せた彼女のおかげで二人の距離はやはりまたゼロ。ただ、そのせいで彼女の瞳が一瞬で丸みを帯びる。自制してくれたようではあるが、視線の向きが変わりかけたのは正面の響樹からすれば明白で、今までの行為とは違った意味で顔から火の出る思いである。


「その……ちょっとだけ隙間を貰えると、助かるんだけど」

「……嫌です」

「いや、嫌とかじゃなくてだな……あー、何と言うか……」


 やはり火の出そうな顔をした吉乃が、それでもいじけたようにほんの少し口を尖らせ、ゼロをマイナスにするかのごとく響樹に強く抱き着く。

「私だって」と、甘く囁くような声はすぐ耳元から。そして腕の力が少し緩み、吉乃の顔は再び響樹の正面へ。


「……知識はあります」

「あー……そうだよな」


 大きく眉尻を下げた吉乃はすぐに響樹の胸に顔を埋める。羞恥故だろうと、まともな言葉を選べないほどに働きの鈍った頭でも流石にわかる。


「……ありがとう」


 様々な思考を放棄した結果だったのかもしれない。だがそれでも、真っ先にこの言葉を言わなければいけない気がしたし、何よりこれが今の響樹の一番伝えたい事だ。


 そっと髪を撫で、腰を強く抱き寄せる。華奢な吉乃を壊してしまわないように、それでも今までで一番強く。

 響樹の胸の中、吉乃は小さな首肯を見せた。


「前にも言ったけど、あの時ははっきり言わなかったよな」


 響樹にとっては半ば言ってしまったようなものではあるが、あれを意思表示とするのは卑怯だ。


「改めてだけど、俺は吉乃さんを抱きたいと思ってる」


 だから明確に言葉で示す。

 吉乃の事を誰よりも何よりも大切だと思うからこそ、今よりも先を望む。


「もちろん今すぐどうこうって言う訳じゃない。ってかそもそも今日は準備が無い」


 当然最も大事なのは吉乃の意思だ。明確な拒絶はされないだろうが、彼女にだって都合はあるだろうし、何よりも男女で心の準備の違いも大きいはずだ。

 だから、この意思表示が吉乃に対しての強制になってしまわない自信がある。吉乃はしっかりと自分の意思で判断ができる。たとえ断られても、響樹がその事で彼女に悪感情を抱く事などあり得ない。そんな信頼関係を築けている確信がある。


「そういう言い方、響樹君らしくて好きです」


 腕の中、少しもぞもぞと動いた吉乃が顔を上げ、眉尻を下げてくすりと笑った。

 端正な顔には熱が残ったまま、それでもやわらかな微笑みが浮かんだ。


「そうやって正面から正直に言ってもらえる事、好きです。響樹君なら、大切な事を絶対に口にしてくれると分かっているから、私も響樹君にしっかりと想いを伝えたいと思うんです」

「ああ。これからも思ってる事は全部伝えるから。吉乃さんを不安にさせる事は絶対にしない」

「本当に全部ですか?」


 いたずらっぽく笑った吉乃がベッドに寝転んだ状態のまま、小さく首を傾げた。


「……可能な限り全部」

「不安にさせられてしまいました」


 頬を膨らませていた空気をふっと吐き出した吉乃がそのままくすりと笑い、「冗談です」とそっと響樹に唇を寄せた。


「先ほどの響樹君の意思表明、嬉しかったですよ」

「なら良かったよ」

「だから今度は私の番です」


 目を細めた優しい微笑みを浮かべた吉乃がすっと息を吸い込んだ。


「私も、響樹君と同じ想いです。だから次に響樹君が泊まってくれる時は、私もそのつもりでいます」

「ありがとう……吉乃さん」


 断られても笑って吉乃を安心させるつもりでいた。もちろんその気持ちに嘘は無いし、それができた自信もある。

 それがどうだろう。吉乃が響樹を受け入れると気持ちを示してくれた事で、言葉に詰まるほどに胸が震える。愛しい恋人が伝えてくれた言葉が嬉しくてたまらず、涙が出そうになった。


「どういたしまして、響樹君」


 あまり見られたい顔ではないと堪えていた響樹にそう優しく声をかけた吉乃は、今までとは逆に、そっと響樹の頭を自身の胸元へと運び、優しく髪を撫でてくれた。

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