湯上りの彼女への素直な感想
「部屋、こんなに広かったか?」
頬を染めた小悪魔がその濡羽色の美しい髪を翻して去って行き、響樹は一人残された部屋を見渡した。
今では自分の実家よりも慣れた吉乃の部屋が、自らが発した言葉の通りとても広く感じる。彼女の姿が見えない部屋は普段とまるで別物で、落ち着かない。
もちろん、落ち着かないのはそれだけが理由ではない。
現時点で吉乃がリビングを離れておよそ5分、まだバスルームの中にもいない程の時間だ。女性である事、髪が長い事、美容に気を配っている事などから、響樹は彼女があと最低1時間は戻って来ないだろうと思っている。
だから待つ時間はまだまだある。それなのに気持ちが逸っているのだ。気が付けば膝の上に置いた左手が少し震えていた。
(落ち着け)
そんな左手を右手で叩き、響樹は次いで自分の頬を軽く張った。
緊張をしているのはきっと吉乃も同じだ。先日寝室に招いてもらった時も、今日家を訪れた時も、浴室に向かう時も、吉乃は響樹の前で緊張の面持ちを見せていた。自分と同じなのだと嬉しくなった。
だから響樹も緊張を全て隠してしまおうとも、そもそも隠してしまえるとも思っていない。だがそれでも、もう少し落ち着けと自分に言い聞かせる。
寝間着姿というのは基本的に他人に見せるものではない無防備な姿だ。それも湯上りとなれば、しっかりとした性格の吉乃ならば尚更。にもかかわらず響樹に見せてくれるというのだから、彼女の緊張の方がずっと大きいはずで、今とても頑張ってくれているのだ。
それに応えたいと思う。戻って来た吉乃を出迎え、思ったままを存分に伝え、恋人として幸せな時間を共にしたいと思う。
響樹は僅かに震えの残る左手をぎゅっと握り、背筋を伸ばした。
◇
と、そんな決意をしてみても、かちゃりとかすかに響いたドアの開閉音、徐々に近付く静かな足音、吉乃の丁寧で綺麗な所作が思い浮かぶそんな音が耳に届いた時にはもう心臓が爆発しそうになった。
そして静かな足音がソファーの隣で止まり、ふわりと香る薔薇の匂いは普段よりも強く、まだ距離があるというのにその甘さにクラクラする。
「お待たせしました、響樹君」
「……おかえり、吉乃さん」
湯上り故かはじらいゆえかほんのりと上気した肌が温かみを感じさせる吉乃は、少し眉尻を下げて誤魔化すように笑い「どうですか?」と首を傾げた。
「……可愛い。よく似合ってるよ」
袖口を指先で摘まみながら両腕を少し持ち上げる可愛らしい仕草で尋ねられ、一瞬言葉を忘れかけはしたが、響樹は事前の決意通り思ったままを伝えた。
風呂上がりなため昼とは僅かに印象は違うが、スラリと伸びた細い体躯と整いに整った容貌は大変美しく、そしてそこに浮かぶはにかみが可愛さも同居させていて堪らない。
濡羽色の綺麗な髪もそうで、艶やかさが普段よりも更に増していて丹念なケアがされている事が分かる。吉乃自身自慢の髪だと言う訳であると、改めて視線を奪われた。
次に見惚れたのは服装。恐らくシルク製なのだろう、光沢のある綺麗な白を黒のラインで縁取ったシンプルなパジャマからは清楚な印象を受け、それが吉乃の美しさを引き立てる。
ただ下襟の開きが大きく、半分ほど除いた鎖骨から布地をおしあげるふくらみの少し上程までが露出し、刺激が強い。強過ぎる。
「ありがとうございます。響樹君も、新鮮で素敵ですよ」
「あ……ああ、ありがとう」
釘づけにさせられていたのは視線だけでなく意識もそうだったようで、響樹自身も寝間着に着替えていた事はすっかり頭から抜けており、思わず自分の体を見下ろした。
吉乃はそんな響樹を見て口元を押さえてくすりと笑い、そっと隣に腰を下ろす。ふわりと漂う甘い香りにまた意識が明後日の方向に行きかけたものの、前傾になった彼女の胸元に違う色がほんの一瞬見え、響樹は慌てて視線を逸らした。
「どうかしましたか?」
「いや、ほら……凄いいい匂いがするから、何と言うか……」
不思議そうに首を傾げた吉乃に半分程隠した理由を告げると、彼女は「ああ」と顔を綻ばせる。
「お風呂上りはどうしてもスキンケア用品などの香りが強くなってしまって心配でしたけど、その様子だと高評価と受け取っていいんですね」
「高評価過ぎて困ってるんだけどな」
いたずらっぽく笑う吉乃がスッと体を滑らせて響樹との距離を詰め、肩が触れ合うと少し恥ずかしそうに可愛らしくはにかむ。そんな笑みにまたドキリとさせられていると、「どうですか?」と上目遣いの視線を向けつつ、彼女は響樹の左胸に手を伸ばす。
「心臓に聞くなよ」
「こちらの方が素直ですからね」
そう言ってふふっと笑いながら優しく手で触れ、吉乃は心臓からの返答に頬を緩めた。
「俺が素直じゃないみたいだな」
「どうでしょうか?」
「まったく」
肩を竦めて呆れてみせると吉乃がくすりと笑う。
それならば素直なところを見せてやろうではないか。そう決めて響樹は吉乃の両肩に手を置いた。
「響樹君?」
「綺麗だ」
小首を傾げた吉乃に告げると、その小さな華奢な肩がぴくりと震え、小さな吐息を漏れた。
切れ長ぎみの大きな目は丸く見開かれ、潤んだ瞳には響樹が映り続けている。
「綺麗で、可愛くて、目が離せない。そういう、いつもと違う恰好を見せてくれた事も含めて凄く嬉しい」
頬の色付きはもはや湯上りが理由などとは言えないくらいで、何かを発しようと震えた淡紅色の唇がきゅっと結ばれる。
「さっき言ったけどパジャマもよく似合ってる。清潔感があって清楚で、つやつやで触り心地もいいし、吉乃さんみたいだと思う。いや吉乃さんには全然及ばないけど」
「あの……」
「髪も凄く綺麗だ。いつも綺麗だけど、風呂上がりだとやっぱ更に凄いな。色艶両方、こんなに綺麗な髪は見た事無い。ちゃんとケアしてるんだってのがよく分かる。長いから大変だろうに、流石だよな」
「……ばか」
潤んだ瞳から恨めしげな視線を響樹に送りながらぽそりと呟き、顔中を朱に染めた吉乃が響樹の胸に額をつけた。
「素直になってみたけど、どうだ?」
肩に置いていた手をそっと背中に回して
「私は、響樹君が私を褒めてくれる言葉を疑った事なんて一度もありませんし、これからも絶対にありません……ありがとうございます」
「ああ、知ってる。ありがとう」
背中を擦る手はそのままに、もう片方の手でそっと吉乃の手を自身の左胸に導いてそのまま髪を撫でる。
甘い香りと天上の触り心地を感じさせる髪、そして抱き着いて来た吉乃のやわらかさと重み。その全てのおかげで心臓がまた素直な反応をし、響樹の腕の中からは優しい笑い声が聞こえた。
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