第110話 思い出と現在の差異
「待ちましたか?」
「今出て来たとこだ」
着替えに戻った響樹のアパートの前での待ち合わせ。いつも通りのやり取りではあるが、吉乃は顔を綻ばせながら「良かったです」とほんの少し、可愛らしく首を傾けた。
「デートでこうやって待ち合わせをするのは初めてですから。このやり取りに一番ふさわしい場面ですね」
「ああ、そういう事か」
確かに最初にこのやり取りをした時にはデートの待ち合わせのようだと思ったものだ。
「最初の時もカラオケだったな」
「ええ。懐かしいですね」
吉乃が僅かに目を細め、優しい微笑みを浮かべる。
あの時は現地で待ち合わせだったが、響樹も同じようにこみ上げる懐かしさを感じながら、もう一つあの時と同じ事を思った。
「その服、よく似合ってる。綺麗だ」
初めて見る服ではあるが、白いコートの下はやはり黒。襟付きのワンピースには高い腰位置にブラウンのリボンベルトが巻かれており、スカートの部分は二重になっている。吉乃が言うにはチュールスカートという名称らしく、彼女にしては珍しい膝丈のスカートはレース素材のもう少しだけ長い物に覆われている。
色合いは同じだと言うのに、スカートの長さが違うだけで印象が変わる。更に言えば吉乃の綺麗で長い足を透かすレースが艶を感じさせ、美しさから来るものとは別種の高揚も覚えた。
「ありがとうございます。嬉しいです」
あの時と違うのは吉乃の反応。
響樹の言葉を素直に受け止め、ほんのりと色付いた顔にははにかみが浮かぶ。
「綺麗だし、可愛い」
往来でなければ今すぐに抱きしめてしまいたいと思うほどに、この美しく可愛らしい吉乃の姿が自分のためなのだという事実が響樹の胸を熱くする。
「響樹君も、素敵ですよ」
「目付きがマシに見えるからか?」
「もうっ。格好いいという意味に決まっているではありませんか」
「知ってる。ありがとう、吉乃さん」
吉乃に向けて右腕を浮かせると、「ずるいんですから」と彼女は膨らませた頬から空気を抜き、やわらかな笑みを浮かべて腕を絡めた。
「大体、私はずっと響樹君の目が好きだと言っているはずですけど?」
「最初の頃は目付き悪いって言ってたろ?」
「鋭いとは言いましたけど、悪いとは言っていません」
「そうだったか?」
「そうです」
尖らせた唇からふっと小さな息を吐き、吉乃が優しく笑う。
「鋭くて力のある目だと思っていました。その中にある響樹君の優しさに気付いてからは、ずっと大好きですよ」
「……ありがとう」
「でも、やっぱり照れると可愛いですね」
マフラーで口元を隠して顔を逸らすと、ふふっと優しく笑う声が聞こえた。
◇
カラオケ以外の予定は一切決めていなかったが、何かしたくなった時に自由度の高い駅付近のカラオケ店を選んだ。
優月のアルバイト先とは違うチェーンであるため、物珍しそうに内部を見回す吉乃が可愛かったのだが、顔に出ていたらしく恨めしげな視線を送られてしまった。
「どうやって座りますか?」
指定された部屋に入り互いに上着を脱いだ後、吉乃が少しいたずらっぽい笑みを浮かべて首を傾げた。
部屋の内部は以前と似たような造りで、中央にテーブルをコの字型に囲むようにソファーが配置されている。前回はテーブルを挟んで向かい合って座った訳だが――
「あそこしかないだろ?」
モニターの向かい側を指差すと、「はい」と吉乃は嬉しそうに笑い、手を取って座らせると「ありがとうございます」と可愛らしいはにかみを見せる。
歌いづらいのでぴったりとくっつく訳ではないが、初めて一緒に出掛けた時と比較して縮まった距離感に頬が弛んだ。
「あの時はこんなふうになるとは思いませんでした」
「全くだな」
「ええ。ではあの時と同じで響樹君からお願いします」
「了解」
歌う事がそれほど好きではない響樹としては吉乃の歌を聴きたいところだったのだが、彼女の方は初手を響樹に譲る。前回の再現だと言われてしまえば断る事もできず、響樹は苦笑を浮かべつつタブレットを受け取った。
「今日は響樹君の歌をたくさん聴きたいです」
「俺は吉乃さんの歌をたくさん聴きたいんだけどな」
吉乃はふふっと笑い、小さなバッグからスティックタイプののど飴を取り出し、響樹の前に置いた。前の時と同じはちみつの入りの物は、合流前に彼女が買っておいてくれた物。
「因みにトローチもありますよ」
ニコリと笑った吉乃の意図するところはたくさん歌えという事で、それはつまり響樹の歌を聴きたいと言ってくれているのと同義だ。
「知ってるだろうけど、俺そんなに上手くないからな。レパートリーも少ないし」
「響樹君の歌が聴きたいんです」
ゆっくりと首を横に振った吉乃が僅かに細めた目でじっと見つめて来るので、響樹は次に来るまでにレパートリーを増やしておこうと決意し、「わかった」と頷いた。
二人分の選曲が終わりマイクを持つと、吉乃が「響樹君」と声を掛けてきた。
「マイクは左手で持ってもらえませんか?」
「ん? まあ別にいいけど」
右利きの響樹は自然と右手にマイクを構えたのだが、吉乃に言われて持ち手を変える。そして空いた右手には温かでやわらかな感触。
「そういう事か」
「そういう事です」
ふっと笑った響樹に対し吉乃もふふっと笑い、ほぼ同時のタイミングで互いに力を込めて指を絡める。
頬に僅かだけ朱の差した吉乃がこちらを上目遣いで見つめ、流れ始めたイントロで「始まりますよ」と目を細めた。
「ずっと見られたままだと歌いにくいんだけど」
「前回のお返しです。ずっと見ていますから」
「俺もずっと見てていいならな」
「はい」
やわらかな微笑みを湛える吉乃に軽口で返したが、彼女はしっかりと頷いた。
「ずっと見ていてください。ずっと見ていさせてください」
「……ああ」
吉乃の発言の最後には、今日は、という言葉が隠れていたような気がした。
顔には微笑みが浮かんでいるし、寂しそうな様子は見受けられない。今日これまでも吉乃はずっとデートを楽しみにしてくれていた事は間違いない。しかしそれでもきっと、頭の中にある父親からの連絡を完全に消せはしないだろう。
「今日は俺だけ見ててくれ」
「響樹君……はい」
丸くした目でぱちくりとまばたきを見せ、吉乃は優しい笑みを浮かべた。
そしてそうかと思えば頬を赤く染めてくすりと笑い、「響樹君は」と楽しそうに口を開く。
「やっぱり、恥ずかしい事を平気で言いますね」
「……うるさい」
自覚はあったが、吉乃の意識を全て自分に向けたかった。
マイクを置き、フリーになった左手で吉乃の頬に触れると、「はい」と彼女はまぶたを下ろす。
ほのかな甘い香りをかき分けて進み、そっと触れた唇は何とも言えない柔らかさで、不思議と少し甘いような感覚を覚えた。
多くをした訳ではないが、いまだ慣れる事など無い幸せな感触と雰囲気と吉乃の息遣いが響樹の脳を揺らす。
「曲、始まってしまいましたね」
口づけを終えて握りこぶし一つ分の距離まで顔を離すと、ぱちりと目を開いた吉乃が眉尻を下げる。
「やり直し選択するからいいよ」
「はい」
目を細めながら囁くような優しい声でそう言い、吉乃はもう一度目を閉じ、響樹に抱き着くように右腕を伸ばした。
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