第111話 今日の彼女のしたい事
ずっと吉乃と手を繋いで歌ったり聴いたりを繰り返している。
合間にいただくのど飴や吉乃が頼んだ喉に良いドリンクのおかげもあってか、前回のように違和感を覚える事も無くカラオケを楽しめている。
前回と違い響樹にも吉乃にも遠慮はほとんどなく、誰よりも気心の知れた相手と隣り合って手を繋いで。傍から見れば完全なバカップルのように楽しめているのだが、問題が無い訳ではない。
(相変わらず凄い上手いよな)
片手が塞がっていて拍手ができない分、響樹は言葉で賞賛を伝えている。吉乃もそうで、実際賞賛に値するかはともかくとして響樹の歌を褒めてくれる。
先ほども吉乃が歌い終わった可愛らしいラブソングに対し、響樹は「上手かった」と伝えたばかりで、彼女の方は少し赤い頬にはにかみを浮かべていた。
問題なのは吉乃の歌とその最中の仕草だ。
歌が上手い事は知っていた。前回は色んな種類の曲にマッチさせた雰囲気で歌う吉乃に驚かされたし、締めのバラードなどはあまりの心地良さに眠くなってしまいそうだったほど。
そして今回も、吉乃の歌の上手さは存分に発揮された。だけでなく、今回はそこに恋人としての彼女の魅力が加わった。
選曲における可愛らしいラブソングの比率が明らかに高いし、そんな歌の時でも当然手は握られている訳で、しかも響樹を見つめながら歌ったり、時には肩に頭を預けながら歌ったり。
それでいて音程や歌声を乱す事の無い技術は驚かされるのだが、今日の吉乃は響樹の心臓に大変よろしくないのだ。
(精神が持つか?)
響樹の番が終わりまた吉乃の順になり、モニターに表示されたのはまたラブソング。何年か前に流行ったアイドルの曲で、聴くために気合を入れ直した響樹の耳にイントロと「響樹君」と吉乃の声が届く。
「どうかしたか?」
「見ていてください」
「そのつもりだけど?」
だからこそ気合を入れ直した訳だと思った響樹だが、やわらかな微笑みを浮かべた吉乃の意図は曲が始まってすぐにわかった。
吉乃はずっと響樹の方を向いたままマイクを構え、そのまま歌い出した。先ほどまでも響樹を見つめたまま歌う事はあったが、今度はずっとである。
体ごと響樹の方を向いた吉乃の膝が響樹に触れる。温かな色に染まった端正な顔、そこから送られる上目遣いの視線、透き通った綺麗な声は僅かに鼻にかけられているかのように甘い音色を含む。
繋いだままの手は歌詞の「恋」や「好き」の単語に合わせて少し力が込められ、吉乃が響樹に何を伝えたいかが明確にわかる。
俺だけ見ていてくれなどと言った手前ではあるが、少し手加減をしてくれないかと思ってしまう。
しかし結局、響樹は吉乃がそうしてくれたように彼女から一度も目を逸らさなかった。逸らしたら負けだという意識もあったが、響樹に可愛いと思ってもらいたいという吉乃の気持ち――からかう気持ちもあったろうが――を真正面から受け止めたかったのが一番の理由だ。
曲が終わってゆっくりとマイクが置かれた。歌い始めよりも色付きを増した吉乃の整った顔には満足げな笑みが浮かんでおり、きっとそれは鏡なのだろうと思える。
「上手だったし、凄い破壊力だった」
「ありがとうございます」
嬉しそうに顔を綻ばせ、吉乃は「どうぞ」と響樹にタブレットを差し出した。ずっと彼女と視線を絡めていたので、響樹は次の曲を入力していない。
「吉乃さん先に入れてくれ。俺はちょっと今歌えそうにない」
「……では、少し休憩にしましょうか」
優しく目を細めてくすりと笑い、吉乃はタブレットを机に戻して響樹に顔を近付けた。整いに整った、温かな色をした響樹の大好きな顔に、僅かな小悪魔が宿っている。ほのかな甘い香りと、鼓動を早めたままの心臓が作り出す血流のせいもあってか、吉乃の笑みがこの上なく蠱惑的に見え、それが更に響樹の心臓に負担をかける。
だから響樹は反射的に背中を少し倒して吉乃から僅かに遠ざかるのだが、そんな様子を見た吉乃がもう一度くすりと笑った。
「嫌ですか?」
「嫌な訳無いだろ。ただちょっと今は心臓に悪い」
「どうしてですか?」
「どうしてって……」
わざとらしくとぼけてみせながら小首を傾げる仕草が非常にあざとく可愛い。心臓は早鐘を打ったままで、元に戻る気配すら無い。
「さっきの……さっきのだけじゃないけど、そういうわざとらしく可愛いの卑怯だぞ。歌も凄く上手いんだし、俺に対抗手段が無い」
繋いだままの手に力を込めて本心を強調してみせると、吉乃が「はい」と表情を崩す。
「響樹君に『俺だけ見ててくれ』なんて言われてしまいましたから。響樹君にも私だけしか見えないようにしようと思いまして」
「効果覿面だよマジで」
「それは良かったです」
ふふっと笑った吉乃が体の位置と向きを元に戻すので、響樹も体を起こして彼女と隣り合って座る体勢に復帰し、肩と肩を触れ合わせる。
吉乃が体を動かした事で、彼女の細い肩にかかっていた艶やかな黒髪が一房、さらりと流れて落ちた。
「手、解いていいか? 髪に触りたい」
「響樹君は私よりも髪の方が好きですもんね」
「いや、吉乃さんの髪だから好きなんだって」
「知っています」
むくれた吉乃に慌てて弁明を伝えると、彼女は可愛らしくくすりと笑い、「どうぞ」と響樹の肩に頭を預ける。
今日はこれまで吉乃が存分に可愛らしい彼女としての姿を響樹に見せてくれた。そのお返しと言うには自分の欲求も多分に含まれているが、彼氏として吉乃に愛情表現で返したかった。
「じゃあ触るから」
「はい。どうぞ」
右腕を背中越しに回してまず肩を抱き、ゆっくりと上らせながら吉乃のサラサラの髪に触れて撫で、指を通して梳く。
少しくすぐったいのか、小さくふっと息を吐いた吉乃が僅かに頭を動かして目を細める。その様子がまた可愛らしい。
「可愛い。今もだけど、今日はずっと。いや、いつもだな」
「ありがとうございます。響樹君にそう思ってもらえるのが一番嬉しいです」
ふふっと笑った吉乃は響樹に右の手のひらを突き出して見せ、「左手、繋いでください」と囁くように甘い声を届ける。
互いに遠い方の手で指を絡め、体の距離は更に近付いた。
「でもあれだぞ? 俺に可愛いって思わせたいと思ってくれるのは嬉しいし、実際に可愛い吉乃さんが見られて幸せだけど、歌いたい歌を歌ってくれよ」
吉乃は歌う事が好きだ。だから響樹に向けた歌だけでなく、前回のように色んな歌を歌ってほしいと思うのだ。吉乃自身が今日を精一杯楽しめるように。
そう思っての言葉だったが、響樹の肩から顔を上げた吉乃はきょとんと首を傾げた。
「歌っていますよ?」
「でも、ラブソングばっかだし。凄い可愛いけど――」
「違いますよ。私は歌いたい歌を歌っています」
響樹の意図を察したのか、吉乃がふふっと笑い右手に少し力を込めた。
「歌う事は好きです。でも、ただ自分の歌いたい歌を歌うだけなら一人で来ればいいですから。今日は響樹君と一緒に楽しめる歌を選んでいます。それが今の私がしたい事です」
優しい微笑みを湛えながらまっすぐに響樹を見つめ、吉乃は迷いなくそう言い切った。
「ずるいよなあ、そういう言い方」
吉乃の髪を梳いて軽く持ち上げ、サラサラと手のひらからこぼしながら、響樹は頬を緩めた。
「響樹君にだけは言われたくありません」
ニコリと笑った吉乃に「お互い様だな」と笑って返すと、彼女は「ええ」と可愛らしく頷いて濡羽色の髪を揺らす。
そんな吉乃の頭を最後に一撫でし、響樹はタブレットに手を伸ばした。
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