第107話 二つ目の義理チョコ

 久しぶりとなった図書室での勉強会を終えた帰り道はまだ明るい。冬休み前には日の入り過ぎで薄暗くなり始める時間だったのだが、今はまだ街灯も点いておらず吉乃の顔がよく見える。

 もちろん、手を繋いでいる事もあって以前よりも二人の距離が近い事も大きな理由なのだろう。


「響樹君。途中でコンビニに寄って行っても構いませんか?」

「構わないけど、珍しいな」


 響樹の通学路上にコンビニはあるが、吉乃の買い物はもっぱらスーパーかドラッグストアなはずだ。


「そうですね。別にコンビニでなくても良くて、急ぐ訳でもないですけど。響樹君と一緒の時に買っておきたいと思いまして」

「何を買うんだ?」


 ちらりと上目遣いで響樹を窺う彼女は苦笑ぎみ。

 響樹としては吉乃の買い物に付き合う事は吝かではないのだが、コンビニで買える物でそんな必要があるのかと思うし、少し言いづらそうにしている彼女が不思議である。


「チョコレートです」

「バレンタインの?」

「はい」

「俺はそんなに狭量じゃないぞ」


 響樹には手作りの物をくれると聞いていた事と吉乃の様子を合わせて考えるのならば、海とは別の誰かに渡す物だという事は想像がつく。

 それが本命だと言うのであれば響樹も穏やかではいられないが、そんなはずが無い事は知っている。


 だから、吉乃が何らかの理由でチョコレートを渡したいと思っているのであれば、響樹としてはそれに対して悪く思う感情は無いのだ。

 ただ誰に渡すのかは気になる。格好つけてしまったので聞けないが。


「……もちろん知っていますよ」


 響樹の先回りに対してまばたきを一度見せた吉乃が眉尻を下げ、「ありがとうございます」の言葉とともに握った手に少し力を込めた。


「でも」


 短い言葉で一度区切った吉乃は、少し先に見えるコンビニの灯りの方に視線をやり、ふうと少し長めに白く綺麗な息を吐いた。


「ちょっと勘違いしていますよ?」

「勘違い?」


 少しいたずらっぽい笑みを浮かべた吉乃は、響樹の言葉に「ええ」と首肯を返して次の言葉を口にした。


「父に、渡そうと思っています」

「お父さん、か」

「はい。父です」


 何でもない事のように。

 表情からも声音からも読み取れない。普段の吉乃の反応から彼女の本心はわかるつもりでいたが、吉乃本人が本気で隠そうとすればまだまだわからないのだなと、少しだけ悔しく思う。


 それでも、もし本当にただ当然の事を言うだけならば、きっと吉乃は言いづらそうになどしなかったはずだ。

 わざわざ響樹と一緒の時に父親用のチョコレートの購入を望んだ以上、吉乃にとっては意を決して伝えてくれた事で、それはつまり響樹を頼ってくれたという証明。


「吉乃さん。腕、組んで歩こう」

「……はい」


 僅かの間だけ丸くした目を細めた吉乃の囁きにも似た優しい声での返事に足を止め、ゆっくりと手を解く。

 自分から言い出したくせに、離れていきそうな熱とやわらかさに名残惜しさを感じてしまい、苦笑が漏れる。


「響樹君から腕を組もう、なんて初めてですね」

「そうだったか?」


 前を向いたままの吉乃がふふっと笑い、ゆっくりと響樹を見上げる。

 そう言われてみればそうだったなと思いつつもとぼけてみれば、吉乃は「ええ」と頷き響樹の腕をとってそこに自分の腕を絡めた。


「響樹君は腕を組むのが嫌いなのかなと思ったりもしました」

「そんな訳無いだろ」

「ええ。でも、響樹君からというのはありませんでしたから」


 わざとらしく口を尖らせた吉乃が上目遣いの視線を送ってくるので、響樹は「恥ずかしいんだよ」と本音を語らざるを得ない。

 手を繋ぐ事も今では当たり前のようにするが、多少の気恥ずかしさはやはりある。腕を組むとなれば尚更だ。


「私と腕を組むのが恥ずかしいんですね」

「そうじゃなくて……わかってて言ってるだろ?」


 ムスっとした顔を作ってみせた吉乃だが、言葉の後半からは僅かに頬が弛んでいた。


「ええ、すみません。少し意地悪をしてみました」


 ニコリと笑った吉乃の頬は僅かな朱が差していて可愛らしい。

「まったく」と呆れてみせた響樹が一歩踏み出すと、くすりと笑った吉乃がそれに続く。


「響樹君が、恥ずかしいのに腕を組んでくれた事、嬉しいです。ありがとうございます」

「俺がしたかっただけだから……少しゆっくり歩くか」

「はい」


 小さな声とともに頷いた吉乃の頭がゆっくりと響樹の肩に預けられ、ほのかに甘い彼女の香りが一瞬強くなったような錯覚を覚えた。

 普通に歩いてしまえば2、3分の距離を、肩に温かな重みを感じながら普段の半分以下のペースで足を進める。


「響樹君」


 1分ほど歩いた頃だろうか、吉乃が静かに口を開いた。


「小学生の頃は、父にチョコレートを毎年渡していたんです。母と一緒に作って」

「喜んでくれてたんだな」

「ええ、とても」


 懐かしむような穏やかな声が少し弾む。


「今年は受け取ってもらえるでしょうか」

「受け取ってもらえると、いいな」

「ええ」


 声に少しだけ硬いものが混じった。


 吉乃は以前、父親にどう思われようと自分は普通の娘として接すると、負けないのだと笑っていた。

 響樹はそんな吉乃の姿勢に敬意を覚えたし、負けず嫌いな彼女を好ましく思っている。

 しかしそれだけではなく――


「お父さんの事、好きなんだな」

「……そう、なんだと思います。複雑な思いはありますけど、私の記憶には私を疎んじる父よりも、優しく笑った父の顔がたくさん残っていますから。そう簡単に嫌いには、なれないんだと思います」

「ああ」


 そっとほんの少し腕を引いた。近くにある吉乃の体がもっと近くへと寄り、彼女の腕と手に力が込められ、響樹の右腕に心地の良い圧がかかる。


「響樹君。背中を押してくれますか?」

「ああ。頼ってくれてありがとう。お父さんに、しっかり叩きつけてやれ」


 響樹の肩から顔を上げた吉乃はくすりと笑い、「チョコレートが割れてしまいますよ」と眉尻を下げた。

「表現上の問題だ」と返せば、吉乃は「冗談ですよ?」と笑い、また響樹の肩に頭を預け、穏やかな声で言葉を続ける。


「もし……父に受け取ってもらえなかったら、慰めてくれますか?」

「もし、もしもだけどそうなったら……何だってしてやる。だから――」

「どうしましょう」


 また顔を起こした吉乃がぱちくりとまばたきを一度、そして僅かに頬を緩めた。


「響樹君が何でもしてくれるんでしたら、それも悪くないなと思ってしまいました」

「……そんな軽口が叩けるなら大丈夫だな」


 軽口ではない事などわかっている。

 今吉乃が不安を覚えている事は隠せていない。きっと彼女自身それがわかっていて、だから響樹の前で冗談めかしたのだろう。響樹に心配をかけないために。そんな彼女がいじらしく、愛おしい。


「吉乃さんを信じてる。吉乃さんのしたい事、俺は何でも応援する。だから今回もだ」

「はい。頑張ります。見ていてください」

「ああ、いつでも見てる」


 優しく微笑んだ吉乃に大きく頷いて返すのだが――


「それはそれで困ります」

「おい」


 朱色のはにかみを見せた吉乃は、「女子には秘密もありますから」と顔を隠すようにまた響樹の肩に頭を預けた。

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