第108話 何度でも君の背を押す

 照れた様子を滲ませながら、購入した物を両手で胸の辺りに抱えた吉乃がゆっくりと店舗から出て来た。

 正方形の赤い包みを鞄にしまわなかったのは恐らく響樹に見せるため。その証拠に、響樹がかけた「お疲れ様」の言葉に吉乃は顔の下ほどまで包みを持ち上げ、「買えました」と可愛らしいはにかみを覗かせる。


 その後すぐ吉乃は照れくさそうに包みを鞄にしまったが、いつものように丁寧なその仕草なのにどこか普段よりも更に大切な物を扱うように見えた。きっとそこには色んな思いが詰まっているのだと思えた。

 響樹はそんな吉乃の隣に並んで一緒に歩き出し、頭にそっと手を伸ばして濡羽色の髪間に指を通す。


「……まだ買っただけですよ?」


 少しだけ口は尖っているが、響樹を見上げるのはくすぐったそうに細められた目。


「渡した後にもするから問題無い」

「渡した後も、こうやって撫でてくれるだけですか?」


 ふふっと笑った後で浮かべられる小悪魔の表情に、これ以上の事をいくらでもしたい響樹としては「お望みならな」と精一杯の強がりを返しておく。


「では望みを考えた上で楽しみにしておきます」

「お手柔らかに頼む」

「どうしましょうか?」


 口元を押さえてくすりと笑った吉乃が半歩響樹との距離を詰め、体を触れ合わせる。

 それを合図に吉乃の頭から手を離すと、彼女が即座に腕を絡めた。


「道端で頭を撫でるよりは恥ずかしくないでしょう?」

「……悪かったな」


 ほんのりと色付いた頬と僅かな潤みを含む上目遣いの視線は、吉乃が多少の恥ずかしさを感じていた証明で、響樹も遅ればせながらそれに気付く。

 無自覚ではあったが、しかし自覚していてもきっと手を伸ばしたと思う。

 吉乃の抱える複雑な思いの全てを理解できはしないが、それでも彼女が父親へと向ける小さな歩幅は響樹から見ても大切で愛おしく、吉乃に触れてそれを伝えたかった。それほどに――


「仕方ありませんね。響樹君は私の事が大好きですから」

「……ああ」


 響樹の考えていた事をちょうどのタイミングで楽しそうに口にした吉乃に頷けば、彼女はぱちくりとまばたきを見せ、ふふっと笑った。


「今日の響樹君は優しいですね」

「普段が優しくないみたいだな」

「普段も優しいですけど、今日は特に」


 楽しげな口調から囁くように静かで優しいものへと吉乃の声音が変わり、ゆっくりと響樹の肩に頭が預けられる。


「ありがとうございます」

「別に、俺はしたい事をしただけだから」


 これは本当の事だ。

 吉乃のために何かをしたいと思う。彼女が喜ぶ事をしたいと思う。可愛らしく笑う顔が見たいと思う。

 同情心や庇護欲やシンパシーなどではなくただ響樹がそれを望んでいるのは、やはり吉乃が言う通り、響樹が吉乃に抱く大きな慕情を源泉にしている。


「はい。だから嬉しいんです」

「そうか」

「ええ」


 響樹の腕に添えた右手に少し力を込め、優しい声でそう言って、吉乃は静かに笑った。



 夕食後、使った食器類を食洗器にかけてリビングのソファーに向かうと、吉乃がスマホとにらめっこをしていた。いつも床と垂直な背筋を保つ吉乃としては非常に珍しく前傾姿勢で、両手で持ったスマホの上で指を動かしては難しい顔をして、そんな動作を繰り返している。

 父親に送るメールの文面を考えている事は明らかで、眉根を寄せたり口を尖らせたりと、そんなふうに真剣な吉乃の姿に心の中で声援を送った。


 響樹も両親に送るメールの文面を考えるのにはだいぶ時間がかかった。だから吉乃がそれを終えるまでいくらでも待つつもりでいたが、数分して指の動きを止めた彼女がふうと息を吐いて視線を上げた。


「……すみません。気を遣ってもらいましたね」

「いや、珍しい表情で可愛かったらむしろラッキーだ」

「もうっ」


 眉尻を下げた吉乃に応じながら隣に腰を下ろすと、姿勢を正したはずの彼女がそのまま響樹の方へと体を倒した。

 ほのかに甘い花の匂いがふわりと香ると同時に、響樹は吉乃の背中越しに手をまわして彼女の肩を抱いた。部屋着に着替えた吉乃のやわらかさが、ブレザーを脱いでいる響樹に伝わってくる。


「あとは送るだけです」


 ディスプレイの送信マークの少し下の辺りに人差し指を添え、吉乃は眉尻を下げて力なく笑った。

 響樹の胸元から、吉乃の視線がまっすぐに向くのだが、どこか弱々しい。


「また、背中を押してくれますか?」

「何度でも押してやる。むしろ押させてくれ。必要な時はいつでもそばにいさせてほしい」


 チョコレートを買う事、会ってほしいと連絡をする事、実際に会いに行く事。一歩進むたびに次の一歩はもっと重くなるはずで、そんな吉乃を支えられるのは響樹だけ。

 いや、もしも他に可能な人物がいたとしても、絶対に譲るつもりは無い。


「私は……いつでも響樹君が必要ですよ?」


 決意ともに伝えた言葉で吉乃は体を起こす。ゆっくりと、少しずつ離れていく彼女の細い肩には響樹の手がまだ乗ったまま。

 互いの体を少しずつ捻り向き合った吉乃は、首に僅かだけ角度を付けてはにかんだ。恥じらいを見せる彼女の発言が本心である事は十分に伝わってきた。


「俺だってそうだけど、いつでも一緒だと困るんだろ?」

「夕食までは優しかったのに、今の響樹君は意地悪な事を言いますね」

「悪いの俺か?」


 口を尖らせた吉乃に言葉を返すと、くすりと笑った彼女はゆっくりと響樹に左の手のひらを向けた。

 吉乃の肩から離した右手を向けられた彼女の左手に合わせ、互いにそっと指を折る。ゆっくりと互いの指と指を絡ませて視線を合わせると、頬を主に染めた吉乃が優しく微笑んだ。


「お付き合いを始めた時以来ですね」

「ああ、やっぱり温かいな、吉乃さんの手」

「響樹君の手もそうですよ」


 ふふっと笑い、吉乃は右手で持っていたスマホを持ちあげて「送りました」と響樹に向ける。


「会いに行く前にはどんな方法で背中を押してもらいましょうか?」

「目的と手段が逆になってないか?」


 絡めた指に少しだけ力を込めて笑う吉乃の言葉は、響樹に心配をかけまいとする――半分ほど本気かもしれないが――彼女の強がりだ。

だから響樹も努めて軽い調子で笑って、握り返す手の力だけで吉乃に応じた。

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