第106話 二人だけの秘密

 図書室のドアを静かに開けて中に入ると、以前と比べて人が少ない。

 今日が土曜である事に加えて三年生が既に自由登校期間に入っている事もあるのだろうが、それでも机の並べられた読書スペースには両手で数えられる人数ほどしか見当たらず、本棚の方の学生を加えても倍になる程度だろう。


 周囲を軽く見回してから足を向けたのは図書室の奥の方。雑誌や新入庫の書籍の横にある読書スペースの脇を通り、背の高い本棚の間を抜け、ほとんど誰も読まない専門書コーナーのさらに奥、まず誰も手に取らない――響樹は存在すら知らなかった――学校史に関する資料の棚の向こうへ。

 抜けた先には記憶の中と変わらぬ狭いエリアに、記憶の中よりも美しい少女がいた。


「待ったか」

「今来たところです」


 響樹を待っていてくれたのだろう。勉強支度をせずにいた吉乃とは、棚の間を抜けた瞬間に目が合った。

 そのまま歩を進めて机の前で定番の質問を投げかけると、やわらかに笑った吉乃がやはり定番の答えを返す。


「なんだか、とても懐かしいです」

「ああ、1ヶ月以上来てなかったからな」


 腰を下ろした響樹を見つめてから目を細め、吉乃は言葉通り思い出すように辺りを少し見回し、やはりまたやわらかな笑みを浮かべた。

 二人の交際はほぼ全校生徒の知るところとなっているらしいが、最近はその事で騒がれる事はほぼ無くなった。吉乃の方も同様との事で、ではそろそろ図書室で勉強を再開してみようかとなって今に至る。


 互いの部屋で行う勉強会も大切な時間ではあるが、この場所は恋人になる前から吉乃と同じ時間を過ごした特別な場所で、思い入れも深い。

 利便性や時間的な融通の利きやすさなどを考えれば互いの部屋の方が優れてはいるのだが、恐らく卒業までの間にここで過ごす時間が消滅してしまう事は無いのだろうと思っている。


「始めるか?」

「ええ」


 勉強道具を取り出した吉乃に、同じく机の上に広げた響樹が尋ね、二人で過ごす静謐なひと時が始まった。

 吉乃がペンを走らせる音、ページをめくる音。机の幅が狭いせいなのかそれとも場の空気のせいなのか、互いの部屋にいる時よりもよく聞こえる。


(この音、好きだな)


 吉乃との勉強会の間は響樹が一番集中する時間だ。それなのに耳に届く音は不快に感じる事などなく、むしろ心地良い。それどころか響樹の集中力と意欲を刺激してくれる。

 顔を上げれば近くに見えるであろう吉乃の整いに整った顔は見ない。多分そうしてしまえば刺激されるのは意欲よりも別の感情で、だから響樹は吉乃の音だけを感じ、更に自分を研ぎ澄ませる。

 目の前にいるのは愛しい恋人で、尊敬する人で、そしてライバルだ。吉乃が頑張っている以上、響樹はいくらでも頑張れるのだから。



「そろそろ休憩にしますか?」

「ああ」


 一段落つけて顔を上げると、吉乃が優しく微笑みながら首を傾けた。


「待たせたか?」

「2分ほどでしょうか。でもその間響樹君が真剣に勉強をしている顔を見られましたので、私としては得をした気分ですね」


 時計を見てみると吉乃が休憩を挟む時間よりも少し遅れていて、申し訳なさから尋ねてみたのだが、彼女は嬉しそうにほんの少し頬を緩めた。


「こっちとしては二重の不覚だ」

「やっぱり響樹君は格好いいですね。真剣な顔がとてもよく似合います」

「目付きが悪いからな」


 吉乃が本心から言ってくれているのはわかるのだが、図書室という事もあっての囁くような声は、甘さを伴いながら響樹の落ち着かない心をくすぐる。

 照れ隠しで視線を逸らせば、吉乃は口元を押さえ「もう」とほんの少し眉尻を下げて笑った。


「何度も言っていますけど、力があって素敵な目元だと思いますよ? 私はとても好きです」

「……それはどうも」

「そうやって照れている姿は可愛いですけど」

「吉乃さんの方がよっぽど可愛いだろ」

「ありがとうございます」


 反撃に出るつもりだったが口を衝いたのはただの本心。

 吉乃もそれがわかるのだろう、嬉しそうに目を細めていた。

 そしてそれがまた、正常動作を外れた響樹の心臓を刺激する。もはやこの場は響樹の完敗である。


「それじゃ、先に自販機のとこ行っとくぞ」

「はい。それでは向こうで」

「ああ」


 立ち上がった響樹にふふっと笑いかけてくれた吉乃に軽く手を挙げると、彼女は小さく手を振って返した。

 慣れない行為にほんの一瞬ためらいを覗かせ、僅かに色付いた顔にはにかみを浮かべての控えめな見送りの挨拶。

 それが堪らなく可愛くて、響樹も恥ずかしさを堪えて小さく手を振ると、吉乃は顔を綻ばせた。


 代償として響樹は自販機コーナーに辿り着く前、真冬に冷水で顔を洗わなければならなかった。



 自販機横の三つ並んだ椅子の隣同士に座り、二人揃ってピンク色の紙パックにストローを差した。

 勉強において重要な糖分補給を行い隣の吉乃を見ると、両手で大切そうにパックを抱えた彼女が手元に優しい視線を落としていた。


「好きなんだな」

「ええ、好きです」


 どこか誇らしげに笑う吉乃に「そうか」と返せば彼女は表情を崩す。

 以前は恐らく子どもっぽいと思われるのが嫌でムキになっていた吉乃が、素直に応じる姿が可愛らしい。


「ところで響樹君」

「ん?」

「図書室での集合も、休憩に出て来る時も、一緒に行動して良かったのではありませんか?」

「ああ、その事か」


 以前は二人の関係を邪推されたくなくて別行動をしていたが、今ではその必要は無い。

 一緒に登校をするし下校もするし、互いの教室にも出入りする。こうして休憩をしている今も恋人としての距離感で接しているし、誰かが通りかかっても憚る事無く話を続けている。


「ちょっと恥ずかしいんだけど、何て言うかあの場所を秘密にしときたいって感じかな」

「秘密?」

「二人で図書室の奥に出入りすれば一人での時よりも目立つだろ?」

「それは、確かにそうかもしれませんね」


 首を捻った吉乃は響樹の返答に「ああ」と納得の様子を見せる。


「……二人だけの秘密という訳ですね」


 綺麗な姿勢で椅子に座ったままの吉乃が頬を緩め、目を細める。


「まあ、そうだな。学校の場所ではあるけど、誰かが気付くまでは独占しときたいかなって」


 勉強ならば自習室があるし、図書室で勉強をするにしても読書をするにしても十分なスペースがある。

 最奥の狭い空間くらいならば独占しても罰は当たるまいと思うのだ。


「そういう事でしたら大丈夫ですよ」

「なんでだ?」


 おかしそうに笑った吉乃が口元を押さえ、「だって」と嬉しそうに口を開く。


「あの場所を作ったのは私ですから」

「そうなのか?」

「ええ。司書の先生に許可を頂いて、1週間くらいかかりましたけど」


 懐かしむように笑う吉乃が言うには、元々あの場所は物置のように扱われていたらしい。そこを吉乃が片付けて掃除をし、机と椅子を運んだそうだ。


「何でまたそんな……」

「色々ありまして」


 以前佐野教諭が、吉乃の名前は職員会議で俎上に載せられるというような事も言っていたと記憶している。苦笑の吉乃は「色々」で済ませたが、恐らくそんなに簡単な事ではないのだろうなと感じた。

 しかし吉乃がその内容を言いたがらない以上、知りたい気持ちはもちろんあるが響樹も聞かない。


「でも、そのおかげで今があります。最初は逃げ場でしたけど、あのスペースが無ければ響樹君と二人で過ごす事も無かったでしょうから。本当に、作って良かったです」


 喜びによるものだろう、少しだけ弛んだ頬をほんのりと色付かせ、吉乃は目を細める。


「ありがとう、吉乃さん」

「どういたしまして」


 吉乃が過ごした時間、してきた努力が響樹と彼女を結び付けてくれた。

 それを改めて認識した響樹が頭を下げて感謝を伝えると、吉乃は僅かに胸を反らして誇らしげに笑う。


「二人だけの秘密……素敵ですね」

「ああ。これからもっと増えるぞ」

「……ええ。約束です」

「ああ」


 口にした言葉に幸福を表情で示す吉乃に、響樹は決意と事実を伝えた。

 一瞬だけ目を丸くした吉乃が優しく笑み、そっと伸ばした手を捕まえ、響樹は力強く頷いた。

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