第105話 約束の有効期限
「すみません。チョコレートを見てきてもいいですか?」
「ああ、どうぞ」
スーパーでの買い物の最中、赤系統の装飾が目立つ特設コーナーに視線をやった吉乃がそう尋ねてきた。
響樹としても以前から目に入っていた場所で興味はあったのだが、流石にくっついて行くのは無粋だと思えたので、「その辺見てる」とだけ付け加えて吉乃を促しておいた。
「ありがとうございます」と微笑んでから歩いて行った吉乃を見送った響樹だったが、前言通りにその辺を見てはおらず、結局は彼女の方ばかり見ている。
(海のだよな?)
響樹の分は手作りだと聞いているので吉乃が選んでいるのは海に渡す物なはずである。にもかかわらず彼女の表情が真剣で、少しもやっとした感情を抱く。
理屈の上ではもちろんわかるのだ。吉乃が海に渡すのは諸々の感謝を込めた義理チョコで、優月の許可も取っている。そして吉乃が誰かに渡す物を適当に選ぶはずがないと。
(狭量だな)
ぺちんと自分の頬を軽く叩き、気を引き締める。
今見える吉乃の姿は響樹にとって好ましいものだ。彼女自身は八方美人と評した事もあるが、本心からの感謝を相手に伝えるために、だから吉乃は一生懸命で、響樹はそんな彼女を尊敬しているし、愛おしいと思う。
◇
「納得のいくもの買えたか?」
その後「お待たせしました」と戻って来た吉乃とともに会計を済ませてスーパーを出たところで、響樹は彼女のエコバッグの中にある手のひらサイズより少し大きめな水色の箱を見ながら尋ねてみた。
「そうですね、何とか。いくら許可を取っているとはいえ優月さんの手前もありますので、中々難しかったです」
吉乃は「優月さんは気にしないでしょうけど」とほんの少し眉尻を下げて目を細めた。
「なるほどな」
「響樹君も」
感謝を伝えるのだから安過ぎても駄目であるし、高過ぎては恋人の優月に対し申し訳ないのだろう。
確かにその辺りは難しいところなのだろうなと納得すると、吉乃は響樹の名を呼びながら口を尖らせた。
「ん?」
「義理チョコを貰っても構いませんけど、食べるのは私の物の後にしてください」
「……俺が貰うと思うか?」
今までバレンタインを意識などして来なかった響樹だが、それは義理でもチョコレートを貰う経験が無かったからだ。母親からすらもである。
今年に関しては吉乃から貰うつもりでいたし、彼女もくれるつもりでいるので当日までを指折り数えてはいるが、他の女子から貰う事などは全く想定していない。
「響樹君はとても魅力的ですよ。私以外から見てもそうだと思います」
「いや、まあ、それはありがとうなんだけど……」
膨らませていた頬から空気が抜け、吉乃が優しい笑みを作る。僅かに細められた目はじっと響樹を見つめていて、彼女の言葉が本心から出たものであると示している。
嬉しい評価である。交際をしている訳なので吉乃自身が響樹に魅力を感じてくれている事は知っているが、贔屓目は大いに存在してはいるだろうが他人から見てもそうだと言ってもらえるのは喜ばしい。
もちろん吉乃に魅力的だと思ってもらえる事が最大の喜びではあるが、響樹はそれだけでいいとは思っていない。吉乃の隣に立つと決めた以上、彼女の魅力に恥じない自分である事を他者に対しても示し続けると決めているのだから。
「私との交際が知れ渡っていなければたくさん貰えたと思いますよ?」
マフラーを摘まみ上げた響樹にふふっと笑い、吉乃が可愛らしく首を傾ける。
「まあ、どうなるかはともかくだ。もし貰っても吉乃さんのを最初に食べる、それは約束する」
「ええ、よろしくお願いします」
ニコリと笑った吉乃が顔を前方に戻し、白い息を吐き出した。
それからしばらく歩き、吉乃のマンションが近付いて来た頃、彼女はマフラーを摘まみ上げて口元を隠し、ちらりと響樹に上目遣いの視線を向ける。
「どうかしたか?」
「チョコレートの約束……有効期限はいつまでですか?」
先ほどとは違う真剣さが瞳には宿っていた。
「ずっとだな。吉乃さんが俺にチョコレートをくれる以上は、ずっと」
だから響樹も、吉乃から目を逸らさない。
「ずっと……」
足を止めた吉乃が、形の良い唇を僅かに開き、呟くように響樹の言葉を反芻する。
響樹も吉乃もまだ高校一年生、十六歳だ。しかも交際はまだ1ヶ月と少し、互いを知ってからで考えても4ヶ月。明確な言葉を口にするにはまだまだ早い。早過ぎると言っていい。
だがそれでも、今響樹はこの言葉を伝えたいと思うし、伝えなければならないと思う。
「ずっとだ。俺は、言葉通りずっとにしたい」
大人から見れば初恋の熱に浮かされた高校生の戯言だと思うかもしれない。実際に以前の響樹だって、もし同級生がこんな事を言っていれば近い事を思っただろう。だがこれは今の響樹の偽らざる本心だ。
吉乃と季節のイベント事を楽しんだ時、いつも翌年の事を考えてしまう。響樹は彼女と過ごす次の年を楽しみにしている。そしてそれはきっと次の年だけでなく、その次の年も。その更に次の年も、その先も、響樹は吉乃といたいと思っている。
「渡したいです。響樹君にチョコレートを。これからずっと、毎年」
僅かに目を潤ませた吉乃がほんの少しだけ声に震えを混じらせた。
マフラーから覗く頬は朱に染まっていて、瞳に浮かんだものと声に混じったものの理由を響樹に伝えてくれる。
「まあ、まだ俺も十六だし、ちゃんとした言葉はだいぶ待ってほしいんだけど。それまで愛想尽かされないように頑張るから」
今はまだ、子ども同士の口約束。それでも響樹は絶対に違えるつもりは無い。
真剣に見つめながらその意思を示すと、表情を崩しながらの吉乃が「もう」と呆れるように息を吐く。
「私はそんなに薄情な人間に見えますか?」
「そういう意味じゃなくて、俺の決意表明だって。前にも似たような事言ったけど」
「知っています。でも、響樹君に愛想を尽かす事なんてあり得ません。響樹君は私が愛想を尽かすような事をする人でない事は、私が一番わかっています」
「……ありがとう」
ニコリと笑った吉乃は口元に指を運び、ゆっくりとマフラーを下ろした。
「お礼は行動でいただきたいと思います」
「…………了解」
瞳を閉じた吉乃の代わりに、響樹は周囲を二度見回した後で苦笑しながら言葉を返し、空いた片手を彼女の細い肩の上に運んだ。
「可愛いな」
「もうっ」
ぴくりと、ほんの少し体を震わせた吉乃に告げると、目をつぶったままの彼女は顔を更に赤くし、何やら文句を言おうとしたらしい。
それでも、その先の言葉は言わせなかった。
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