第104話 甘い日まではあと10日

「そろそろバレンタインだな」


 帰りのHRが終わり、隣のクラスでもそれが終わるのを待っていた響樹に同じ立場の海が何気ない様子を装いつつ声を掛けてきた。


「まあ……そうだな」


 あと10日をそろそろと言うかは迷ったのだが、コンビニでは恵方巻よりも目立つ特設コーナーが作られていたので、世間的にはそろそろなのだろうと同意しておいた。


「貰えそうか?」

「そりゃ貰えるだろ」

「だよなー」


 吉乃との間で話題に挙げはしなかったが、響樹は彼女からチョコレートを貰えるものだと思っている。当たり前だと考えてしまうのは良くないのだろうが、それでも吉乃がバレンタインというイベントを無視するとは全く思えないのだから仕方がない。


「お前は?」

「俺?」


 とぼけた顔で白々しい態度を取る海を軽く睨むと、彼はいつものように軽い調子の笑みを浮かべ、「怒るなって」と響樹の肩を叩く。


「優月が今年は手作りくれるって言っててさあ。去年までも義理で貰ってたけど、今年はすげー楽しみなんだよ」

「そりゃ楽しみだな。良かったな」

「おう」


 いつも通りの軽薄な笑みから一転し、楽しみで楽しみで仕方がないと言わんばかりの笑みを浮かべる海に素直に祝福を述べておく。


「花村さんは料理と言うかお菓子作りは得意なのか?」

「あの優月が得意だと思うか?」

「お前……」


 何故か自信満々な海に胡乱な視線を向けたが、返って来たのは「わかってないな」との言葉。


「苦手なのに俺のために頑張ってくれるのがいいんだろ」

「……なるほどな」


 吉乃に苦手な事が無いので最初はピンと来なかったのだが、彼女が響樹と写真を撮りたいと自撮りの練習をしてくれていた事は、姿を想像して可愛いと思っただけでなく確かに嬉しかった。きっとそれに近しい感覚なのだろうと思える。


「どんなもんが出てきても絶対に最後まで食い切る覚悟だ」


 中々いい事を言ったなと思ったらこれである。

 もちろん冗談である事はわかるし、ある意味では本気な事もわかる。付き合いの長さが成せる気安さとでも言えばいいのか、惚気にも嫌味が無い。鬱陶しさはもちろんある。


「チョコレートで食えない物作る方が難しいだろうに」


 響樹が海の後ろまで来ていた吉乃に視線を向けながら言葉を返すと、彼女は穏やかな笑みのままほんの少し眉尻を下げた。


「あいつならやり兼ねな――」

「へえ」


 惚気に熱が入っていたせいか自分の後ろにいる二人の存在にまるで気付かなかった海は、油を差し忘れた機械のような動きで振り返り、響樹の方に一歩後ずさる。


「……HR終わってたのか」

「ついさっきね」

「そうだったのか。待っててくれれば行ったのになあ」


 白々しく誤魔化しに入る海をじろりと睨んだ優月の少し後ろで、表情こそほとんど変わらないが吉乃は楽しそうにしている。


「じゃあ海。俺は先に帰るから」

「待て響樹、いや、待ってくれ」


 どうせ優月も本気で怒っていない事はわかっている。この先見せられるのはただのじゃれ合いで、叩かれながら喜ぶ友人など見たくはない。のだが――


「あ、待って天羽君。お願いがあるから」

「お願い?」



「今日は突然すみませんでした」

「別に気にしてないって。勉強会は先約って訳でもないしな」


 優月のお願いは吉乃と出掛けたいという事で、吉乃からの了承を得たものの律儀に響樹の了解まで取りに来てくれたらしい。

 響樹としては多少寂しくはあったがそれでも吉乃が楽しければそれで良しであるし、「遅くならない内に帰すから」という言葉通り夕食前の時間には解散となったらしい。


「ありがとうございます。でも、こうやって迎えにも来てもらっていますし――」

「いいって。晩飯は一緒なんだし、こうやって迎えに来るのも彼氏っぽくていいだろ?」


 夕食前とは言え二月初旬はもう暗い。駅近辺ならばともかく、暗い夜道を吉乃一人で歩かせる選択肢は無い。

 それに自分の言葉通り、こうやって吉乃を迎えに来る途中も少し楽しさがあった。彼女がらしさを求める気持ちが少しわかった事もあり、嬉しかった。


「はい、そうですね」


 響樹の言葉にぱちくりとまばたきを一度見せた吉乃は顔を綻ばせて腕を絡め、全身で喜びを示してくれる。

 まだ人目のある場所で腕を組んで歩く事で、ただでさえ人目を引く吉乃のおかげもあって大変視線が痛い。だがやめようとは思わなかった。彼氏らしい事を望んだ響樹に対して吉乃からの返事がこれなのだから。


「来週の十三日、今度は優月さんを部屋に招きます。その日は夕食もご一緒できないと思います」

「了解。花村さんが家に来るのは初めてか?」

「そうですね。誰かを招く事自体響樹君以外では初めてです」

「そうか」


 僅かな緊張と、そしてそれよりも大きな期待が吉乃の表情からは読み取れた。友人を家に招くというある意味では普通の行為は、他人と距離を置いていた彼女からすれば普通ではない事。だからなのだろう、吉乃の喜びは響樹にも伝わる。


「十三日って事はあれか」

「ええ。一緒にチョコレートを作る事になっています。と言っても手は出しませんけど」

「それなら海も安心だな。二つの意味で」


 吉乃が見ているのなら味の心配は無いし、手伝わないのであれば海にとっても望むところである優月が作ってくれた物が出来上がる。


「もう一つの方はともかく、優月さんも手伝いは望んでいませんでしたからね」


 くすりと笑った吉乃は、「色々言いつつも島原君の事になると、優月さん可愛いですよね」と響樹を見上げた。


「ノーコメントだ」

「私はそこまで狭量ではありませよ」

「知ってるけど、俺の問題だ」


 またもくすりと笑った吉乃は腕を組んだまま響樹の肩に頭を預け、「気にはしませんけど、嬉しいです」と囁くような声を出した。


「それで、今の流れで少し言いづらいですけど」

「ん?」


 言いづらいと口にしたものの、頭を上げた吉乃の口調からはそれを感じられなかった。



「優月さんにも許可を貰いましたけど、島原君にもお礼として渡すつもりでいます。そちらは手作りではなく既製品ですけど」

「俺だってそこまで狭量じゃないからな」

「知っています」


 ふふっと笑い、吉乃はもう一度響樹の肩に頭を預ける。

 吉乃が義理堅い事は知っているので海に渡す事自体は何とも思わない。ただそれでも事前に言ってくれた事に対し「俺も嬉しいからな」と返すと、彼女は言葉ではなく響樹の腕を抱く力をぎゅっと増す事で応じた。


「で、だけど。海のだけじゃなく当然俺の分は期待していいんだよな?」

「ええ、もちろんです。期待していてください」

「ああ、何より楽しみにしとく」

「もう」


 呆れたように優しいため息をついた吉乃の横で、海が10日も前から楽しみで楽しみで仕方がないといった表情を見せていた理由が響樹にもよくわかった。

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