第103話 より良い写真を撮るために

 一月の下旬頃から通学路のコンビニや買い物に利用するスーパーで恵方巻の宣伝を見る事が増えたと思う。

 そう言えば節分が近いのだなと意識こそすれど、響樹はだからどうとも思わなかったのだが、そこから時間が過ぎて節分当日の夕食時――


「海鮮を中心に、七福にあやかって七つの具材を使っています」


 そう言って出してくれた皿の上には輪切りにされた恵方巻。赤、黄、緑という鮮やかな色が目を引き、食欲をそそる。こんなふうに料理を目で楽しむという感覚を、響樹は吉乃のおかげで知る事ができたと言って過言ではない。

 恵方巻に視線が釘付けになった響樹にくすりと笑い、吉乃はいつものように向かいではなく隣に腰を下ろした。


 首を捻った響樹に対して吉乃も僅かに首を傾けながらはにかみを浮かべ、「せっかくの縁起物ですから」と口にする。

 どういう意味だと聞き返そうとした響樹の前で、吉乃はくすりと笑いながらダイニングテーブルの隅にコトリと音を立てて何かを置いた。


「方位磁石?」

「はい」


 隠すように覆っていた手がゆっくりと離されると、下から現れたのは青と白のコンパスで、方角だけでなく真北を0度とした360度の目盛りも付いている。


「今年の恵方はあちらです」

「本格的だな」

「せっかくですからね」


 にこりと笑った吉乃が白くしなやかな指を先までしっかりと伸ばしながら手で示したのは響樹たちの正面からやや左。

 苦笑しながらも椅子を少しだけ左に向けると、吉乃も同じように椅子を動かし、頬を弛めた。


 あくまで響樹の認識ではあるが、節分というのは恋人向けのイベントではないと思う。イベントと呼ぶ事すら違和感があるほどだ。世間一般でも、吉乃の認識でも恐らくそうではないだろうか。

 それでも吉乃は今日という日を響樹と一緒に楽しもうと考えてくれていた。恋人同士の特別な日という訳ではないが、きっとそうである必要は無いのだろうなと思えた。


「じゃあ早速、いただきます」

「はい、召し上がってください」


 箸を伸ばしてまず一切れを摘まむ。いくらまで入っているのにまるで崩れる事の無い様子に驚きつつも口に運ぶと、酸味とほのかな甘さの酢飯が醤油で下味のつけられた鮪や鮭などと調和し、響樹の味覚に幸福を運ぶ。他にも卵やキュウリなどの具材も使われているのに、雑多な印象も無ければ味の消えた食材も無く、見事に共存していた。

 存分に味わいながら咀嚼して飲み込むと、自身の物には手を付けずに響樹を窺っていた吉乃が顔を綻ばせ、唇の前で人差し指を立てた。


「感想は後ほど聞かせてもらいます。食べ終わるまでは無言が推奨されているそうですので」


 笑みを浮かべながら大きく頷いてみせ、響樹は即座に次に箸を伸ばした。「美味い」と言葉で伝えられない分、態度で示したつもりだ。


「もう」


 目を細めてくすりと笑い、「嬉しいですよ」と口にした吉乃はようやく自分の箸を動かし始めた。



 食事を終えて思う存分「美味い」と伝えた後、吉乃に言われてソファーで待っているとトレイを持った彼女がやって来た。


「どうぞ」


 優しい微笑みを響樹に向けた吉乃がテーブルに並べたのは、茶たくと湯飲み、そして小皿がそれぞれ二つずつ。小皿の上には煎った豆が乗せられており、正確に数えた訳ではないが十数個程度だろうと思えた。


「年の数だけか?」

「ええ」

「こだわるな」

「せっかくですから」


 今日はよくその言葉を使うなと思っていると、吉乃が響樹の隣にそっと腰を下ろしてすっと体を寄せる。部屋着の彼女のやわらかさと、ほのかな甘い香りが楽しげな笑顔とともにやって来る。


「来年は俺の部屋で豆でも撒こうか?」


 吉乃はこんなふうに行事やイベント事を大切にする。響樹はそう言った日には両親が自分を蔑ろにするのを目の当たりにする事が多かったのであまり好きではなかった。

 だが今は違う。自分の隣で楽しそうに笑う吉乃がいてくれるだけで、自然と来年にまで思いを馳せてしまうほどに。


「約束ですよ? 楽しみにしておきますから」


 こちらに顔を向けて満面の笑みを浮かべた吉乃に「ああ」と頷き、響樹は湯呑みに手を伸ばした。

 濃いめで淹れてくれた力者を一口いただいて茶托に戻し、今度は豆に手を伸ばすと隣の吉乃がスマホを構えているのに気付く。


「……撮るのか?」

「せっかくですので。それに、たくさん写真を残しましょうと約束もしましたしね」

「まあ、そうなんだけどさ」


 にこりと笑った吉乃は豆に手を伸ばしたまま固まった響樹の写真を一枚撮り、「笑ってください」と注文を付ける。


「無茶言うな。せめて一緒の写真にしてくれ」


 ダブルデートで撮った写真――撮ってもらった物も含め――をスマホからパソコンに移して保存する際、吉乃は一枚一枚を確認しながら嬉しそうにその時の状況を思い出していた。

 だから響樹としても吉乃との写真をこれからも残したいという思いを強くしたのだが、それはあくまで二人の写真の話だ。一人の写真は恥ずかしい。


「仕方ありませんね」


 くすりと笑いながら響樹の肩に頭を預けた吉乃はそのままスマホを持った右腕を前に出し、シャッター音を鳴らす。


「上手に撮れるんだな」


 見せてもらった写真は、響樹の視線こそ明後日の方を向いていたが、ブレる事も無く二人の姿を中心にしたバランスの良い一枚だった。

 そして何より、表情だけでなく写真の中の雰囲気からも吉乃が心底楽しいと思ってくれていた事が伝わってきて、響樹の胸を温かな気持ちで満たす。


「練習しましたからね」

「したのか」

「ええ。響樹君とこうやって写真を撮るために、練習しました」

「そうか」


 何をするにも器用な吉乃の事なのできっと少ない試行回数でできるようになったとは思うのだが、難しい顔をして自撮り写真を眺めたりスマホの角度を調整したりする彼女を想像するとそれだけで頬が弛む。


「因みにその時の写真とか――」

「全て消去しましたのでもうありません」


 久しぶりに笑顔で圧を掛けてくる吉乃に「残念だ」と肩を竦めてみせると、彼女はふふっと笑いもう一度写真を撮る。

 不意打ち気味だったのでまたも響樹の視線はカメラを向いていないが、吉乃は「私を見ている響樹君です」と誇らしげにしている。


「でも、節分らしさがありませんね」

「恵方巻とでも撮れば良かったな」

「そうですね。次からはわかりやすい物も用意しておくようにします」

「……ああ」


 次からも、こうやって吉乃との思い出と写真が増えていく。彼女にしてみれば当たり前だからと口にした事で、もちろん響樹にとっても当たり前の事。ただ、それを共有できた事が嬉しかった。


「とりあえず俺が豆の皿持つか」


 本当は吉乃が持ってくれた方が可愛らしい絵になると思うのだが、響樹に自撮りは無理である。


「はい、お願いします」


 目を細めた吉乃はまたも腕を伸ばしてスマホを構える。響樹も今度こそは視線を合わせた、つもりである。

 カシャリとシャッター音が鳴り、横目で窺った吉乃がまた楽しげで可愛らしい笑みを浮かべていて、少しだけいたずら心が首をもたげた。


「そのままもう一枚いいか?」

「はい? 構いませんけど」


 不思議そうに首を傾げたものの、吉乃は戻しかけた腕をまた伸ばす。

 そのタイミングで響樹も腕を動かした。手に持った小皿から福豆を一つ摘まみ、吉乃の口元へと運ぶために。


「こうした方がより節分らしい写真が撮れるだろ?」


 しかし響樹の言動で顔を赤くした吉乃は一瞬スマホに目を向けた後で響樹をじっと見つめ、機敏な動きで腕を引っ込めた。

 スマホを響樹の手が届かないソファーの端に置く徹底ぶりである。


「そんな写真、撮れる訳無いじゃありませんか!」

「写真は嫌だけど豆を食べるのは嫌じゃないと」


 眉尻を下げて口を尖らせる吉乃に言葉を返せば、虚を突かれたように「あ」と発した彼女が更に色付きを濃くした頬を膨らませ、恨めしげな視線を響樹に送る。


「うぅ」


 そんなふうに小さく唸る吉乃は可愛らしいが、やり過ぎてしまっては悪いなと彼女の口元から手を引き戻そうとすると――


「響樹君が悪いんですからね」

「え?」


 指先に一瞬だけ温かでやわらかな感触。次いで目の前の吉乃の口元が可愛らしく小さな動きを見せている。静かな室内で硬い物を噛むような音も聞こえる。


「あー……えーと?」


 赤く染まった顔と恨めしげな視線はそのままに、吉乃の喉元が僅かに動く。


「ご満足ですか?」


 その後で湯呑みに口を付け、ふうと小さく息を吐いた吉乃は、真っ赤なままの顔に勝ち誇った笑みを浮かべた。


「……ああ」


 素直に負けを認めざるを得ない響樹に対し満足げに頷き、「でも」と吉乃は小悪魔へと表情を変える。


「私は満足していませんので」


 言うが早いか響樹の持った小皿から豆を一つ摘まんだ吉乃が、お返しとばかりに響樹の口元へと運ぶ。


「嫌ですか?」

「……そんな訳あるか」

「はい、いい子です」


 ニコリと笑って首を傾けた吉乃は、餌を待つ雛鳥状態の響樹に向けてゆっくりと指を進めた。

 唇を開いてされるがままに待っていると、いつの間にか小悪魔の表情には緊張が浮かんでいて、それが可愛らしい。


「……はい」


 優しく囁くような声とともに少し硬い豆の感触と、そしてやわらかな指がかすかに唇に触れる感触。

 吉乃は「あ」と小さな声を上げ、引いてきた指先をじっと見つめ、響樹を見つめ、目を伏せてしまった。


 吉乃の指も触れた事はあるし、響樹の指に彼女が触れた事ももちろんある。互いの唇を触れ合わせた事さえもある。

 それなのに、伏せた視線の先で自身の人差し指同士を触れ合わせる吉乃の仕草に、響樹は今更ながら強烈な羞恥ともどかしさをおぼえてしまう。


「……ご馳走様でした」

「……お粗末様でした」


 少し長い間咀嚼していたにも関わらず、その後中々吉乃と目を合わせられなかった。

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