第102話 5分遅れの理由
前日の疲れは無く、目覚めからずっと良い気分の続いている響樹がアパートの敷地を出ると、歩いて来る吉乃が目に入った。
外行きの穏やかな表情で歩く吉乃が、響樹を見つけると一瞬だけそれを崩したのがわかり、頬が弛みかける。しかし笑顔を見せるにせよだらしのない表情では格好悪い。そして何より恥ずかしい。だから顔を少し引き締め、いつも通りニコリと笑う吉乃にいつも通りを意識した笑顔を向けた。
「待ちましたか?」
「今出て来たとこだ」
「良かったです」
いつも通りのやり取りの後、いつも通りに朝の挨拶を済ませて吉乃の手を取ろうとすると、一瞬だけ彼女がためらいを見せた。
普段は吉乃の方からも手を伸ばしてくれるのだが、今日はその手が途中で止まった。ごく短い間ではあったしすぐに手を取ってくれはしたのだが、響樹は当然それに気付く。
(恥ずかしがってる?)
繋いだ手と響樹の顔の間で視線を一度往復させた吉乃が少し頬に力を入れたような気がした。
これまで何度も手を繋いできたし、吉乃はその度に嬉しそうな表情を見せていたが、最近はこんなふうに触れ合うだけで照れる事など無かったはずだ。それなのに彼女が引き締めたように見える頬には、ほんの僅かな色付きが見える。
「行きましょうか」
「……ああ、行こう」
響樹を見上げて促す仕草はいつも通り。だがそのいつも通りに、吉乃が顔をほんの少し上向かせる仕草が想起させる状況に、響樹の返事が一拍遅れた。
意識した訳でもないのにどうしても視線が吉乃の唇に向き、意識しなければ離せない。いや、意識しているのに吸い込まれる。
「私ばかりでは不公平ですからね」
ふふっと笑いながらそう口にし、吉乃が歩き出す。
笑うたび、言葉を発するたびに形を変える桜色の唇から、響樹は視線を離せない。
「……不公平ってなんだよ」
「だって、響樹君は本当にいつも通りで。昨日あんな事をしたのに……」
「……その言い方、わざとだろ」
隣に並んだ響樹に対して首を少しだけ動かし、吉乃が口を尖らせる。しかもその後で指を唇付近に持って来てのアピール。言葉と相まって非常にあざとく艶めかしさを覚える行為に、一瞬で響樹の意識が昨日に持って行かれる。
せめてもの抵抗で必死に顔を逸らすと、くすりと笑う声とともに繋いだ手に力が込められた。
「そもそも俺だってなあ……」
先ほど吉乃が覗かせた気恥ずかしさは響樹にだって十分残っているのだ。今朝の段階では抑えられていただけで、昨夜吉乃と別れてからの響樹はあらゆる事が手に着かないほどだった。
だから色んな日課を放って早々に眠りに就いた結果、朝にはなんとか平常に戻っていた。だと言うのにもはや水の泡である。
「俺だって、何ですか?」
抜群の記憶力を誇る吉乃の事だ、きっと響樹よりも鮮明に覚えているはずだ。だから朝になってもいつも通りに少し支障が出た。だから今、いつも通りで無いのが響樹も同じだとわかって、頬を緩めたのだろう。
響樹が視線を戻すと、いたずらっぽく上目遣いを向け、吉乃は可愛らしく小首を傾げる。
「俺だって、キスした記憶が頭から離れなかった」
「そ……それを直接言うのは、ずるいです」
目を丸くした吉乃が一瞬で染まった顔を響樹から逸らす。
動かした首に合わせて揺れる濡羽色の髪が朝日を浴びて艶めいて綺麗だと場違いな感想を抱いた後、自分が口にした言葉で猛烈な羞恥に襲われた。
(吉乃さんが向こう向いてて良かったな)
恐らく吉乃よりもマシではあろうが、響樹の顔もそれなりの熱を持っている事だろう。
「自分から言わせようとしたくせに」
照れ隠しと誤魔化しでそんな軽口を叩くと、返答代わりに吉乃がぎゅっと手に力を込め、恨めしげな視線を響樹へと向けた。
そして響樹の顔色にも気付いた吉乃は、優しい微笑みを浮かべる。
「響樹君。顔、赤いですよ」
「もうじき二月だからな」
マフラーを摘まみ上げて口元を隠すと、ふふっと笑った吉乃が「ええ、そうですね」と同じようにマフラーに口元を沈ませた。
「キス、したんですよね。昨日」
吉乃の大きな瞳がちらちらと何度か響樹を捉えた後、進行方向を向く。彼女はそのまま、温かな布地の向こうから懐かしむような声を上げた。透き通るように綺麗な声だと、そう思う。
いまだ視線は前を向いたまま。繋いだ手にきゅっと込められた力に吉乃の真剣さを感じ、茶化す気にはなれなかった。恥ずかしい事この上ないが、響樹は首を大きく縦に振る。
「ああ。したよ、キス」
「はい。しましたね、キス」
隣の吉乃に顔を向けて伝えると、彼女の方もこくりと頷き、響樹を見上げた。
白いマフラーに先ほどまでよりも深く沈ませた赤い顔。以前クリスマスカラーだと思った様相は、変わらず、いや、あの頃よりもずっと可愛らしい。
恋人になった吉乃があの頃よりも魅力的に映るのか、それとも吉乃が恋人である響樹により心を許して違う表情を見せているのか。
(きっと両方だな)
そう思いたかったし、そうだとしか思えなかった。
「そろそろこの辺にしとくか?」
「ええ、そうですね」
幸せな思考だと思ったし、吉乃もずっと優しい微笑みを湛えていた。
しかしそろそろ知り合いに会うかもしれない位置で、これ以上続けてはお互いに他人には見せたくない表情を晒しかねない。
「続きはまた帰りにでも」
「続き……響樹君は。もうっ」
「そういう意味の続きじゃない!」
結局、この日の登校は5分ほど遅れた。
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