第101話 頬が弛む気持ち

 唇を重ねていたのはどのくらいの間だっただろうか。

 触れ合わせたままの唇から伝わる「ん」と小さく漏れるような甘い声で我に返り、ゆっくりと腕の力を抜き、吉乃から離れた。


 腕の中の吉乃のやわらかさも、少し甘い花の香りも、顔を離そうとするまではまるで感じられないほどに、ただただ彼女の唇に、綺麗な淡紅色をした薄めの唇に夢中になっていた。

 普段はその唇の色と白雪のような肌の対比が美しいのだが、今の吉乃の顔にそのコントラストは無く、端正な顔は真っ赤に染まっている。


 そんな吉乃の顔――特に唇――から目を離せずにいると、ゆっくりと彼女のまぶたが上がる。そしてその速度とはまるで違い、あっという間に彼女の頬が弛む。

「響樹君」と囁くような甘い声が、そんな彼女の表情と相まって響樹の脳を揺らす。


 頭だけでなく体全体に熱を覚え、もう一度吉乃に顔を近付けると、彼女はまた瞳を閉じたのだが、響樹はその華奢な肩に触れて押し戻した。

 ぱちりと目を開いた吉乃が口を尖らせるのだが、響樹も苦渋の決断である事を存分に表情で示しながら前方を指差す。

 本当ならばこのままもう一度触れ合いたいところだったのだが、後ろのゴンドラの屋根が視線の高さに迫って来るのでタイムオーバーだ。むしろよくこのタイミングで止める事ができたものだ。


「仕方ありませんね」


 振り返ってまた響樹へと視線を戻した吉乃は眉尻を下げてくすりと笑い、隣に座り直す。

 吉乃の動きに呼応してふわりと香る甘い匂い。もう慣れたものだと思っていた彼女の香りに頭がくらくらするのは、先ほどまでの距離を如実に思い出すからだろうか。


「せっかく一番高いところだったのに景色見られなくて悪かったな」

「それよりも素敵なものを貰いましたので、構いませんよ」


 向かいの窓を上機嫌で見つめる吉乃の唇をちらりと窺い、自制のために話題を逸らした。それなのにふふっと笑った彼女は話題を戻し、響樹に上目遣いの視線を向ける。


「……そういう恥ずかしい事言うなよ」

「普段のお返しです」


 くすりと笑った吉乃は優しく目を細める。普段もする表情ではあるがそれでもいつもとは違う、喜びを抑えられずにいる様子が可愛らしく、そして愛おしい。


「それに、また一緒に来るんでしょう? 景色はその時にだって見られますよ」

「ああ、そうだな」


 その時にもまた見られないかもしれない。そんな言葉を飲み込んで苦笑すると、吉乃が正面に向かって手を振った。

 表情は既に穏やかな笑みを浮かべた外行きのものに変わっているが、顔に集まった熱はまだ引いていない。


「向こうも片側に座っていますね」

「ああ」


 正面からは先ほどよりも更に高さが近くなった海と優月の乗るゴンドラが上昇してくる。対してこちらは下降していく訳で、すれ違いの時間は短い。

 ただそんな短時間でも、二人が楽しそうに手を振っていたのはわかるし、それは吉乃も同じ。そして響樹も同じだ。


「優月さんたち、しっかりと手を繋いでいましたね」

「そうだったか? 海のだらしない顔しか気付かなかった」

「もうっ」


 上に消えて行った二人を見送りながら、吉乃が呆れ半分で小さく息を吐く。


「でも、好きな人と一緒にいて頬が弛んでしまう気持ちはよくわかります。私だって今、必死で抑えていますから」

「そうか」

「ええ、そうです」


 濡羽色の綺麗な髪に手を伸ばすと、彼女は「優月さんたちの前に出られなくなりそうです」と苦笑を見せた後、顔を綻ばせる。

 発言の内容については響樹も同様で、必死で頬に力を入れていた。



 既に日の落ちた帰り道、手を繋いで歩く吉乃の足取りは大変軽い。


「響樹君の寝顔は可愛かったですね」

「不覚だ」


 帰りのバスの中、先に寝たのは吉乃だった。

 すうすうと可愛らしい静かな寝息をたてる吉乃が響樹の肩に頭を預け、その姿と唇に観覧車の中での事を想起させられ、目が冴えたと思っていたのにいつの間にか響樹も寝入ってしまったらしい。

 そうして先に目を開けた吉乃に寝顔をばっちりと見られてしまった。彼女の記憶力をもってすれば写真を撮られたに等しい訳で、恥ずかしい事この上ない。


「優月さんと島原君には改めてお礼をしないといけませんね」

「ああ、ほんとにな」


 肩を竦めて首を振った響樹を見てふふっと笑い、吉乃は目を細めながら少し遠くを見つめながら口にする。

 響樹も考えていた事だ。今日という日を設けてくれた事もそうだが、どちらかと言えばインドア派な響樹と吉乃をそれとなくリードしてくれていたのではないかと思っている。


「お互いに素敵な友人を持ちましたね」

「……ああ」


 優しく微笑んだ吉乃が口にした言葉が二つの意味で嬉しい。

 一つは吉乃が優月を自分から友人と呼んだ事、しかも素敵なという形容をつけて。

 もう一つは海を褒めてもらった事。高校に入った響樹が捻くれきってしまわなかったのは彼のおかげによるところが大きい。そんな友人の良さを、一番大切な吉乃がしっかりと気付いてくれた事が嬉しい。


「いつかだけど、今度はこっちで予定立てて遊びに誘うか?」

「そうですね。春休みにというのはどうでしょうか? 遠出もできますし」

「そうだな、そのつもりで考えるか」

「ええ」


 まだ2ヶ月近く先の話だというのに、吉乃は楽しそうに予定を語る。それに応じる響樹もやはり楽しかった。

 帰り道の会話はいつの間にか春休みの事ばかりで、気付けばもう吉乃のマンションのすぐ前まで辿り着いていた。

 ダブルデートなど吉乃と二人きりの時間が減ると思っていたくせに、中々現金なものだと苦笑が漏れる。


「どうかしましたか?」

「いや、何でも」

「そうですか?」


 可愛らしく小首を傾げた吉乃だったが、ふと気付いたように周囲をきょろきょろと見渡し、小さく頷いた。


「響樹君」

「どうかしたか?」

「ここは私の家の前です」

「そうだな?」


 当たり前の事を言う吉乃だが、響樹に上目遣いの視線を送ったかと思えば今度はその目を一度伏せ、ちらちらとこちらを窺う。

 しばらくそうしていた吉乃が、「なので」と朱に染まった顔で言葉を続けた。


「もう頬が弛んでしてしまっても大丈夫なんです」

「……俺はまだ帰り道があるんだけどな」

「そこは頑張ってください」


 はにかんだ吉乃はそう言って瞳を閉じ、僅かに顔を上向かせた。


「ああ」


 華奢な肩に手を置くと、吉乃が体をぴくりと震わせた。

 ゆっくりと顔を近付け、ほんの少しだけ唇を触れ合わせる。今度は吉乃の甘い香りもしっかりとわかった、そしてそれ以上に唇のやわらかさも。


「顔、ゆるゆるだぞ」

「知っています」


 真っ赤な笑顔の吉乃はそのまま響樹の胸に飛び込んだ。

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