第100話 地上100メートルの恋人

 昼食後に激しいアトラクションに乗るのは避けようと決めていたので、逆説的に午前中は激しいコースとなった。目玉のジェットコースターほどではないがどのアトラクションも多少の待ち時間はあったので休憩はできたのだが、それでも絶叫系五連続となれば多少の疲労を覚えてくる。

 ハイテンション組はそんな様子を見せないが、吉乃はそんな二人を見ながら「あの二人は元気ですね」と楽しそうに笑った。疲労の色こそ全く覗かせないが、彼女の方も多少は疲れを感じているらしい。


「ほんとにな。体力なら俺の方があると思うんだけど」

「単純な体力だけでなく、私たちはこういった雰囲気に慣れていませんからね」

「精神的にって感じか」

「恐らくは」


 回転系の絶叫マシンから降りたばかりだというのに、海と優月はパンフレットを見ながらああだこうだと楽しそうに言い合っている。


「響樹」

「吉乃」


 二人の中で何やら結論が出たのか、全く同じタイミングで顔がこちらを向く。


「昼前にもう一個乗るか、ちょっと早いけど昼飯にするか。どうする?」

「先輩カップルに決めてもらおうと思って」


 優月が今日時々口にする「先輩カップル」という言葉に表情は全く変えない吉乃だったが、その度に響樹との距離が少しだけ詰められる。

 流石に腕を組んだのは初回だけだが、今回も握った手に少し力を入れた吉乃が半歩響樹に歩み寄り、ゼロ距離から「どうしますか?」と響樹を見上げた。


「そうだな。遅くなって飯であんまり待たされるのも面倒だし、先に食べるか?」

「ええ、賛成です」

「と言う事で飯でいいか?」

「ああ了解」

「それじゃご飯行こー」


 楽しそうに手を突き上げた優月に海が応じ、「おー」と同じく拳を突き上げた。

 そんな様子を吉乃がぱしゃりと写真に収め、その後響樹をじっと見つめる。


「……俺はやらないぞ」

「そうですか」


 穏やかな笑みを浮かべた吉乃がそれでもそのままじっと響樹を見つめ続ける、もちろん上目遣いで。彼女が何を言いたいかなど、当然のようにわかる。

 ちらりと窺ってみた海と優月はニヤニヤとしながらスマホを構えているが、もはや覚悟を決めるしかなさそうである。


「飯、行こう」


 繋いでいない方の左手を弱々しく突き上げると、ほんの少し表情を崩した吉乃が「はい」と頷いた。フリーの右手はそのままの位置である。


「おい」

「冗談です。ごめんなさい」


 ふふっと笑って頬を緩めた吉乃が響樹を見上げながら小さく「おー」と口にし、同じように小さく拳を突き上げた。突き上げると言うにはだいぶ低い位置で、彼女の少しだけ朱に染まった可愛らしいはにかみを浮かべた端正な顔の横の辺りまで。

 その様子に目を奪われ、聞こえたシャッター音は気にならなかった。


 ただ、昼食時に行われた写真交換会においてはだいぶ恥ずかしい思いをした。



 昼食後最初のアトラクションに選ばれたのはお化け屋敷。歩くので腹ごなしにもちょうどいいだろうという事だ。

 因みに海は「優月は怖がらないから」と残念そうな様子を覗かせながら惚気ていた。


 そして吉乃も、「暗いですね」「良く出来ていますね」などと口にして怖がる様子をまるで見せない。

 たまに陰から出てくるお化け役に驚く事はあったが、それは響樹も同じであるので怖がる彼女に抱き着いてもらうなどという幻想はあっさりと崩れ去った。


 昼食後はそんなふうにゆっくりとスタートし、メリーゴーランドに乗った――だいぶ恥ずかしかった――その後は食事の消化が済む頃にまた絶叫系。

 楽しい時間は過ぎるのが早いとはよく言ったもので、気が付けばあと1時間弱で帰りのバスが出るまでになっていた。


「次で最後かな」

「そうですね」


 腕時計に視線を落としながら呟くと、吉乃が少し寂しそうに頷いた。

 視線の先では海と優月がまたもパンフレットを広げながら最後に乗るアトラクションを話し合っている。


(任せっぱなしだったな)


 実際に来てみなければアトラクションの待ち時間などはわからないので、都度乗る物を決めようという話でいたのだが、その都度はほとんど海と優月任せだった。

 響樹も吉乃もこれといった希望のアトラクションが無かったという事もあるし、適材適所という事もあるのだが、それでもだ。

 今日の吉乃がずっと楽しんでいた事はもちろん知っているが、いつか二人で来る時にはしっかりとリードできるだろうかと考え、苦笑が漏れる。


「響樹君」

「ん?」


 僅かな重みを感じた肘の辺りを吉乃が摘まんでいた。

 ほんの少し眉尻を下げて見上げる吉乃は、もう片方の手でパンフレットを開きながら、少し不安そうに口を開く。


「私、観覧車に乗りたいです」

「ああ、乗ろう」


 迷う必要などは無かった。吉乃が乗りたいと言った物がそのまま響樹の希望だ。


「海に言ってくる」

「ありがとうございます。でも、私からお願いしてきます」

「ああ。頼む」

「はい」


 そう言って優しく笑った吉乃だったが、海たちに声をかける前にはほんの一瞬緊張の面持ちを見せた。しかし小さく息を吐いてすぐに一歩踏み出し、「優月さん、島原君」と二人に声をかけた。

 対等な友人関係において、本来は大した事ではないと思う。ただきっと、今までの吉乃には無かった事だ。こういった場も、自分の希望を持つ事も、それを響樹以外の他人に告げる事も。


(頑張れ)


 直接言ったのならまた子ども扱いだと怒られるだろうが、後ろ姿に送るくらいはしてもいいだろう。

 そして聞こえてきたのは喜色の混じった「ありがとうございます」の言葉。海も優月もデートの締めにはもってこいだと快く、と言うよりもノリノリで了承をしてくれ、吉乃としても安堵の様子を見せていた。


「良かったな。それからありがとう」

「どういたしまして」


 戻って来た吉乃の頭を思わず撫でそうになったが流石に堪えた。

 振り返った瞬間にぱっと輝くような笑みを浮かべた吉乃を前に、我慢した自分を褒めてやりたい。


 そうして並んだ一周約15分の観覧車。


「一番高いところは100メートルほどになるようですよ」

「結構な高さだな」

「遠くまで見えるんでしょうね」


 ゆっくりと動き出した観覧車の速度は計算上時速1キロと少し。人が歩くよりもずっと緩やかな速度で少しずつ地上から離れていく。

 ゴンドラに先に乗り込んだのは響樹と吉乃で、次を待つ海と優月に吉乃はずっと手を振っていて、「ほら、響樹君も」と促された響樹も手を振ってみると、その瞬間を写真に収められた。


「観覧車、好きなのか?」


 後ろの二人が次のゴンドラに乗り込んだのを見届けて響樹の向かいに座った吉乃に尋ねると、彼女は曖昧な表情を見せた。


「観覧車自体と言うよりも、最後に響樹君とゆっくり過ごしたかったからでしょうか。他のアトラクションではこうはいきませんから」

「絶叫系じゃ話すらままならないからなあ」

「ええ」


 口元を押さえてくすりと笑った吉乃が、ゆっくりと窓の外に視線を向ける。

 乗り込んでまだ1分と少し程度、時計で言えばまだ7時ほどの位置にあるゴンドラからは遊園地の外などはまるで見えない。


「今日は本当に楽しかったです」


 今度は逆の窓を見ながら、吉乃は目を細めて笑った。

 位置はまだ低いとは言え、今日楽しんだアトラクションの多くが目に入る。吉乃の記憶力であれば実際に見る必要などなく思い出せるのだろうが、彼女は実際に自分の目でそれらを見ながら、懐かしむように口にする。


「最後みたいな言い方だな。俺はまた来るつもりだけど?」

「そんなふうに聞こえましたか?」


 顔を響樹の方へと戻した吉乃がぱちくりとまばたきを見せ、眉尻を下げた。


「でも、楽しみにしています。私もまた来たいですから。もちろん響樹君と」

「ああ」


 まっすぐに響樹を見据えて優しく微笑む吉乃に頷いて応じると、彼女がふふっと笑う。

 そんな様子が可愛らしくて少し気恥ずかしくなって視線を逸らす。少し高くなったゴンドラの位置からは、先ほどは見えなかったお化け屋敷や食事処など、低めの建物も視界に入る。


「今日行ったとこが全部見えるな」

「ええ、どれも楽しかったです。お化け屋敷では響樹君が驚いていて可愛かったですし」

「吉乃さんだって驚いてただろ」

「そうでしたか?」


 すまし顔の吉乃はわざとらしく首を傾げるのだが、その様子がまた可愛いので響樹としては肩を竦めて誤魔化しておいた。

 そんな様子を見てくすりと笑った吉乃は、「すみません」と断ってポケットからスマホを取りだしてから振り返る。


「優月さんからでした。後ろ姿が見えるそうです」


 そう言って小さく手を振った吉乃に近付いてみると、反対側の響樹の席からでは見えなかったが確かに隣のゴンドラの中が見える。

 座席に膝立ちになった優月と、そんな彼女の肩に手を置く海に小さく手を振った吉乃の後ろで、響樹も軽く手を挙げておいた。


「吉乃さん、こっち来てくれ」

「わかりました」


 元の位置に腰を下ろした響樹が誘うと、吉乃は苦笑を浮かべながらゆっくりと響樹の隣に腰を下ろす。


「これで見られないな」

「特に困らないではありませんか」


 楽しそうに笑いながら、吉乃がそっと響樹の手を取り指を絡めた。


「こういうの、見られたら困るだろ。ほんとは」

「そうですね。今日は雰囲気に流されたようなところがありますけど、明日には恥ずかしくなっていると思います」

「自覚はあったのか」

「私だってそこまで浮かれてはいませんよ」


 響樹に顔を向けて「もうっ」と口を尖らせて見せた吉乃は、その後で表情を崩す。


「それでも響樹君と恋人らしい事をたくさんしたいという思いがまさっただけです」

「そうか」

「そうです」


 僅かな朱に染まったはにかみに気恥ずかしさから素っ気なく返すと、吉乃は僅かに首を傾けてやわらかな笑みを浮かべた。


「段々と外も遠くまで見えるようになりましたね」

「そうだな。俺たちの家は、あっちか」


 時間からすれば現在の高さは80メートルほどで、海やその向こうの半島までもがかすかに見える。

 方角的には響樹たちの住む市も見えるのだが、ランドマークになる建物が無いため正確な位置はわからない。


「遠いですから、正確にはわかりませんね」


 同じ事を思ったのか、僅かに身を乗り出していた吉乃がこちらを振り返りながら苦笑を浮かべている。


「残念です。響樹君の家がわかればと思ったんですけど」

「緯度と経度から計算すれば大体わかるぞ」

「見えないと意味がありませんよ」

「知ってる」

「もうっ」


 からかわれたと思ったのだろう。実際からかった訳だが、吉乃が僅かに頬を膨らませながら座席に戻ろうとしたところで、少し強めの風が吹いた。

 不安定な吉乃の態勢が小さな悲鳴とともに崩れかけるが、その前に響樹が彼女を抱き寄せた。


「タイミング悪かったな。大丈夫か?」

「いえ……良かったですよ、タイミング」


 腕の中の吉乃は、一度のまばたきで驚きの表情を消し、優しく微笑んだ。

 先ほどまでも隣で感じていた甘い香りをより強く感じ、コート越しの吉乃の体にやわらかさを覚える。


「軽口叩けるなら大丈夫だな」

「軽口ではありませんよ」


 響樹の照れ隠しに口を尖らせる吉乃を腕の中から解き放とうとするのだが、脳の命令を腕が聞いてくれない。


(違うな)


 離そうと考えただけでその実離したくはないのだ。

 入場の時と同じく吉乃の細い腰を抱き、彼女を自分に密着させている。互いにコート越しだというのに確かなやわらかさと、届くはずの無い温かさを感じている。

 ずっと響樹を見つめたままの吉乃の潤んだ瞳には、そこに映る響樹自身すら見える。きっと逆も同じなのだろう。それだけ近い。


 しばらくそのまま、会話の無いままでゴンドラは進み、窓の外を見る限り現在は地上から100メートル。


「会話が無くて気まずいとか嘘だな」

「そうですね。今、とても幸せな気持ちです」


 いつの間にか響樹の胸元に体を寄せた吉乃がこちらを見上げ、目を細めた。

 その顔は端正で、やわらかな笑みを湛えている。しかしそこに普段の色は無く、もう少し先の時間に見えるであろう夕焼けのような色。きっとこれも、逆も同じくだろう。


「吉乃さん」

「はい」

「恋人らしい事、もう一ついいか?」


 響樹の腕の中、吉乃は返答の代わりにまぶたを下ろした。

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