第96話 君の全てが
「すみません響樹君、電話をしてきます」
「ああ、了解」
夕食で使った調理器具と食器を洗っている――作る方は吉乃に任せてしまったので――と、吉乃がスマホを持って近付いて来た。
別に電話くらいで離れた場所にいる響樹に了解を得る必要など無いと思うのだが、作業中だったので悪いと思って断ってくれたのだろう。吉乃の律義さが感じられて微笑ましい。
「ありがとうございます」と軽く頭を下げて戻っていった吉乃が指を動かした少し後でスマホを耳に当てるのを確認し、これ以上は悪いなと響樹は食器洗いに戻った。
水を流しっぱなしにして万が一にも吉乃の声が聞こえないようにと洗い物を済ませると、彼女の電話は既に終わっていたらしい。優しく微笑んだ吉乃がこちらに視線を送っており、目が合うと会釈を見せる。
「片付けをありがとうございました」
「作る方が労力段違いだろうに」
しかも吉乃は調理と並行してある程度の片付けも進行させるので、ますます響樹の仕事割合は低い。
二人の料理の腕に差があるので作る方は吉乃に任せる事が多く――響樹も手伝わせてもらう事はあるが――、そちらの技術も磨かなければならないなと、響樹は内心で苦笑しながら彼女の正面に腰を下ろす。
「洗い物をしなくてもいいというのは気楽ですよ。料理は好きですけど、洗い物は好きではありませんから」
吉乃は口元を押さえながらふふっと笑い、「なので」と言葉を続ける。
「響樹君には感謝しています。それに片付けだけでなく、料理を作る楽しみが増えた事は間違いなく響樹君のおかげです」
はにかんでみせる吉乃の言う事はつまり、響樹に料理を作る事が楽しさの上乗せになっているのだという訳で、嬉しくないはずが無い。
響樹としても吉乃の料理は味についてはもちろんだが、彼女が作ってくれたという事も美味しいと思う大きな要因である。
「そう言ってもらえるのは嬉しいけど、俺が料理作る機会が無くなりそうだ」
それでもやはり頼りっぱなしでは情けないし、いつか追い付いてやりたいとは思うのだ。
「私は響樹君の作ってくれた料理も好きですから、たまには食べたいですよ?」
「いつか毎日食いたいって言わせてやるからな」
可愛らしく小首を傾げる吉乃に、いつになる事やらと自分でも苦笑しながら伝えたのだが、彼女は目を丸くして言葉を失っていた。
「どうかしたか?」と声を掛ければ、吉乃は「いえ」と苦笑を見せる。
「響樹君ですからね」
「何だよそれ?」
諦め半分といった具合で笑う吉乃ではあるのだが、もう半分は喜色だろう。しかしその理由を教えてはくれず、ほんのりと色付いた頬を少しだけ弛ませていた。
「まあ吉乃さんが楽しそうだからいいけどさ」
できれば吉乃が何に対して喜んでいたかは今後のために知っておきたくはあるのだが、それを探していくのもきっと楽しいのだろうと思える。
「そういうところですよ」
目を細めてふふっと笑った吉乃にわからないと肩を竦めてみせると、彼女が口元を押さえてくすりと笑った。そしてその横で、テーブルの下に置いてあった彼女のスマホが震えた。
「電話か?」
「いえ、メールですね」
「メール?」
珍しいなと思って聞き返してみると、吉乃もその自覚はあるのか「ええ、メールです」とほんの少し眉尻を下げた。
「先ほどの電話をした方からです」
「へえ」
そう言えば先日も電話をしていたと言っていたなと思い出す。あの時は特に何も思わなかったが、失礼ながら吉乃もあまり友人の多い方ではないし、そもそも友人間でもあまり電話などはしないだろう。男子と女子は違うのかもしれないが。
必然、相手は誰だろうと――
「気になりますか?」
「……別に?」
響樹の思考と重なるようなタイミングで、テーブルの向かいにいる吉乃がいたずらっぽい笑みを浮かべて首を傾ける。
ついつい反射的に否定してしまったが、気になるに決まっている。ただやはりそれでも、単に頷くのが癪だなという感情だけでなく、吉乃のプライバシーでもあるのだから必要以上の詮索は恋人であろうともすべきでないと思う。しかし――
「本当に気にならないんですか?」
先ほどよりも口角を上げた小悪魔は、どうやら気にしてほしいようである。
「気にならないと言えば嘘になる」
「遠回しな言い方ですね」
くすりと笑った吉乃がそのまま表情を崩し、言葉を続ける。
「お相手は以前話した父の部下の方です」
「引っ越しとか進学とかで世話になったっていう?」
「ええ、その方です。父との仲介をしていただいた形でしょうか」
「仲介?」
「ええ」
ニコリと笑った吉乃がそのまま小さく頷き、響樹の疑問に答える。
「父に一応ですけど文理選択の報告をしておきました。父が私に直接は連絡をして来ないので、その方を経由してといった形ですね」
「お父さんと……連絡とってたんだな」
吉乃と父の間には大きな断絶があるものと思っていたので、笑顔を崩さずにいる彼女の発言は意外だった。
「高校入学後では今回が初めてですよ。響樹君とお付き合いし始めた日に、私が響樹君に言った事を覚えていますか?」
「大体の事は覚えてる」
流石に吉乃のように一言一句とは言わないが、あの日の記憶は響樹にとっても大切なもので、けっして色褪せてはいかない。
吉乃はそんな響樹の返答に「ありがとうございます」と少しだけ顔を綻ばせた。
「自分で言った事ですからね。私も、父に負けない事にしました。向こうが私を避けているのか疎ましく思っているのか、どちらにせよ私は娘として普通の接し方をしようと思いまして」
「……ほんと、負けず嫌いだな」
誇らしげな吉乃だが、口で言うほど簡単ではないはずだ。
言葉をかけてもらった響樹は、両親を意識して自分を縛ってしまう事を止めはしたが、まだまだ吉乃のような心構えはできていない。
吉乃が孤独に耐えてきた期間を思えば、きっと響樹がその境地に達するよりもずっと難しいはずだ。
「だって……そういう私の方が、響樹君は好きでしょう?」
少しだけおずおずとではあるが、頬を染めた吉乃が可愛らしく首を傾げた。
「ああ。そういう負けず嫌いなとこもいじっぱりなとこも、吉乃さんの全部が好きだ」
「ありがとうございます。響樹君がよく言っている、私にふさわしいという事。同じ事を私も思っているんですよ?」
満面の笑みを浮かべた吉乃が頭を下げ、もう一度少しだけ首を傾げる。
「……ますます俺も負けられないな」
「こちらの台詞ですよ」
ふっと笑った響樹に、目を細めた吉乃が優しく笑いかけた。
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