第95話 所謂あれ

「理系で出してきた」


 提出の締め切り日である今日も吉乃と一緒に学校を後にしたのだが、帰り道で響樹はその事に言及しなかった。伝えたのは響樹の部屋で少し落ち着いてから。

 吉乃も吉乃で当然今日が締め切りな事は知っているのだが、その話題には一切触れなかった。響樹から話題に出すのを待っていてくれたのだと思う。


 吉乃がお揃いのマグカップを音も無くテーブル上に置いたタイミングで伝えた言葉に、彼女は「はい」と優しい微笑みを浮かべた。


「顔を見ればわかります。響樹君が自分の選択に自信を持っている事が。ですので、私が言う事は何もありません」

「ありがとう。そう言ってもらえるのが一番嬉しい」


 将来どんな道に進むかはまだまるで考えられていないが、それでも響樹は自信を持って今回の選択をした。

 吉乃がかつて悩んでいた自分の好きな事、したい事。今の彼女は自分の意思でそれらを見つけて選んだ。だから響樹も、佐野教諭から聞いた話なども参考にしながらその先の進路なども含めて考え、それでもなお今自分のしたい事を選んだ。


 もしかしたら将来違う選択をすれば良かったと思う日が来るかもしれない。その時に後悔をするかもしれない。しかしそれでも、今の自分が決めた事を恥じたりせずに胸を張るつもりでいる。

 だから今も自信を持って吉乃に伝えた。もちろん響樹の考えが全て伝わるはずなどは無いが、彼女は響樹の選択を信じ尊重してくれる。今目の前にある微笑みがその証拠だ。と、そう思ったのだが、吉乃は僅かに眉尻を下げた。


「結局同じクラスにはなれませんでしたね。それだけは心残りです」

「まあ、な」


 文理でクラスが別れる以上、二年三年における組分けでどれだけ祈ろうと確率はゼロだ。

 それに関しては響樹も残念に思っているが、それを理由に文理を選ぶ自分を吉乃に誇れはしない。


「その分、こうやって一緒にいる時間をたくさん作りたいと思ってる……これまで通りと言わなくもないんだけど」

「ええ、当然です。もっと増やしたいくらいですから」


 ニコリと笑う吉乃に響樹としても同意であるが――


「増やすって言ったってなあ」

「中々難しいでしょうね」


 少し探るように窺ってみた吉乃の表情に浮かぶのは苦笑い。


(気付いてないな)


 響樹と吉乃は学校にいる時間以外の多くを共有している。付き合い始めて以降で今のところは互いの友人と出かける事が無かったのだが、今後そういう事もある程度増えるだろうし、一緒に過ごす時間はむしろ減るのだ。

 しかしそれを解決する方法があるのだが、口にはしづらい方法である。学校にいる時間以外で一緒にいないのは朝と夜であるのだから、そこをともに過ごせればという理屈で言えばそれだけなのだが。

「一緒にいる時間をたくさん作りたい」が言外にそんな意味を持ってしまったような気がして少し焦ったのだが、吉乃がそれに気付いていなくて本当に良かったと思う。


「難しくはありますけど、お互いに一人暮らしですから。一般的な高校生の恋人同士よりもそういった点では恵まれていますね」

「まあ確かにな」


 確かにそういった点では恵まれているのだ。互いに一人暮らしを始めた経緯は不本意なものではあるが、吉乃がそれを気にせず、響樹も気にしていないと理解して口にしてくれた事も相まって自身の境遇に感謝したい気持ちだ。

 ただまあ先ほどの考え的にも恵まれてしまっているので、響樹としてはせっかく追い出しかけた邪な思考にまたも悩まされてしまう。


「あと2ヶ月は一年な訳だし、二年の事は二年になってから考えればいいか。お互いの時間割とスケジュールがわかんないと決められない事もあるだろうしな」

「ええ」

「それじゃあ勉強――」

「はい。約束の時間ですね」


 吉乃に気付かれる前に勉強会に移ろうかと思った響樹だったが、その言葉をニコリと微笑んだ吉乃が遮る。


「響樹君が文理の選択を決めたら、そういう約束でしたよね?」

「約束、したか?」

「楽しみだと言ってくれましたよ?」


 笑みはそのままにほんの少し横に首を倒す吉乃は、まだ圧こそ感じないが有無を言わさぬつもりである事は明らかだ。


「ああ、楽しみにしてた」

「それではこちらに来てください」


 以前一度吉乃に髪を撫でてもらった時、大変に心地良かった。だから楽しみにはしていたのだ。それを露わにして喜んで撫でてもらいにいくのが少し格好悪いと思っただけで。

 そんな響樹にふふっと笑い、吉乃が響樹を招く。


「こちらへどうぞ」

「こちらって……」


 招かれた先にいる吉乃は、正座の姿勢を少し崩した横座り。彼女の手が示す先はその短めのスカートから伸びる長い脚の、黒いタイツに覆われた腿の上。一応吉乃が購入したハート形のクッションが置かれてはいるが――


「……所謂膝枕的なあれ?」

「所謂膝枕的なそれですね」


 おずおずと尋ねる響樹にすまし顔を作ってみせた吉乃だが、ほんの少し頬が赤い。


「別にそこまでしなくても、頭撫でるくらいはできるだろ?」

「響樹君の方が背が高いですしソファーもありませんから、こうでもしないと中々難しいですよ?」


 恐らく頭を撫でる事を決めた時から膝枕の事も決めていたのだと思う。少し照れた様子こそ覗かせてはいるが、吉乃に迷いは無さそうである。

 響樹としてもしてほしいかしてほしくないかで言えばしてほしいに決まっている。決まっているのだが流石に恥ずかしいし、平静を保てる自信が無い。


「さあ、勉強時間が無くなってしまいますよ?」


 ニコリと笑った吉乃がぽんぽんとクッションを叩く。立ったままの響樹に上目遣いの視線が向き、「どうぞ」と楽しそうに口にしながらもう一度ぽんぽんと彼女が招く。


「お邪魔します」

「はい、どうぞ」


 結局誘惑に負け、もうどうにでもなれと吉乃が崩した脚と反対側に腰を下ろし、ゆっくりと背中を倒していく。後頭部に触れた彼女の手に招かれるように、頭はクッションの上に運ばれた。

 感触はただのクッションなのだが、僅かに感じる不安定さがその下に吉乃の腿がある事をしっかりと教えてくれている。


「ずっとこうしようと思っていましたけど、実際にしてみると意外に恥ずかしいですね」

「……ああ」


 視界に広がる吉乃の顔にはにかみが浮かぶ。

 下から見る機会など今まで無かったが、やはりどの角度から見ても吉乃は綺麗で可愛いのだなと感心した。


「撫でますね」

「よろしくお願いします」


 思わず敬語になった響樹にくすりと笑い、「はい」と吉乃は優しく響樹の頭に手を伸ばした。左手で側頭部を優しく支えながら、右手でゆっくりと響樹の髪を梳き、撫でていく。それが大変――


「やっぱ気持ちいいな」

「それでしたら良かったです。前にも言いましたけど、響樹君の髪質はやわらかいので撫でている私も心地いいですよ」

「それなら良かったよ、こっちこそ」


 触り心地は吉乃の髪に遠く及ばないだろうが、彼女にとっても悪くないのであれば何よりだ。

 かすかな甘い香りと優しい手つき、そして膝枕という状況に心拍は上昇中であるが、ほんの少し安堵を覚えた。


 そんな間でも吉乃の手は止まらず、響樹に心地良さをこれでもかと与えてくれる。手櫛でとかすかのように、何度も何度も、左右を変えて響樹の髪を撫でて梳く。


「いつまで続くんだ?」


 いつまででもと思ってしまうのだが、流石にそれは色々まずい。勉強もしなければならないし、響樹の心臓的にもだ。


「響樹君がやめてほしいと言うか眠ってしまうまでですね」

「それは困るな」


 口の端が僅かに上がった吉乃が浮かべるのは、下から見るせいでほんの少し印象が違うが、いつもの小悪魔の笑み。

 この角度からなら普段と違う吉乃がもっと見られるかもしれないと、響樹の顔の近くまで流れている彼女の長い髪に手を伸ばした。


「もう。響樹君はこの間撫でたじゃありませんか」


 頬を膨らませる様子も少し違う。普段も今日も可愛らしい事は共通なのだが。


「この間俺が触ってた時間よりももう長いし、吉乃さんが嫌だって言うまで続けるつもりだから」

「言うと思いますか?」


 ふふっと笑った吉乃は、彼女の濡羽色の綺麗な髪を梳く響樹の指に優しい視線を送った。

 そうして、響樹は手と頭に大きな心地良さを感じながら、優しい微笑みを湛えた吉乃の表情を見上げながら、得難い時間を過ごした。


 ただ、下から手を持ち上げる姿勢のせいもあって、先にギブアップをしたのは響樹だった。

 得意げな吉乃の笑みも下から見るとまた少し印象が変わるのだなと、負けた悔しさは少しだけ緩和された。

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