第94話 寂しさは証明

「時間がどれくらいかかるか分からなかったし、今度からこういう時は先に帰っててくれよ。もちろん待っててくれた事は嬉しいけど」

「そう付け加えられてしまっては待たない訳にいきませんね」


 手を繋いで歩く帰り道、右隣の吉乃は響樹が伝えた言葉をくすりと笑って否定した。上目遣いで可愛らしく首を傾げる彼女の頬は少しだけ弛んでいる。

 響樹としてはそんな反応は更に嬉しくあるのだが、それでも自分の都合で吉乃を待たせるのは望ましくない。逆の立場なら響樹も待っていたと思うのだが、その事は面倒になるので伏せておく。


「……じゃあ、待ってられると困る」

「困るという事は、浮気をするつもりですね」


 断腸の思いで口にしたというのに、わざとらしく頬を膨らませた吉乃が足を止めてずいっと顔を近付ける。


「する訳ないだろ」

「そうですね。響樹君には私だけですもんね」


 じっと見つめる吉乃から目を逸らさずに見つめ返すと、彼女は表情を崩す。あの時真っ赤に染まっていた顔は今、ほんのりと温かな色。

 自分の口にした言葉を返されてだいぶ恥ずかしい事を言ったのだなと今更ながら思ってしまい、可愛らしい笑みを浮かべる吉乃を直視できず、今度は視線を外す。


「……ああ、そうだよ」

「知っています」


 視界の端に映るすまし顔の吉乃、そんな彼女の握ったままの左手を少し引いてゆっくりと歩き出す。

 ふふっと笑った吉乃は一瞬だけ響樹の後ろにいたもののすぐに横に並んだ。


「すみません、困らせるつもりはありませんでした」


 繋いだ手に少し力が込められて吉乃に視線を戻すと、少し眉尻を下げていた彼女が優しい微笑みを浮かべた。


「暗くなる前ですから待っている間も教科書を読めましたし、電話をする用もあったので時間を浪費していた訳ではありません。待っていたのは言った通り少しですから、安心してください」

「時間についてはそれならいいんだけど……それでもやっぱり外は寒いし、次待っててくれるなら屋内で待っててくれよ」

「待っていてもいいんですね?」

「待っててくれるのは嬉しいからな。吉乃さんの負担にならない程度になら」

「ええ。わかりました、ありがとうございます」


 そう言って優しい微笑みを湛えたまま頷いた吉乃の口がゆっくりと尖る。ほんの僅かに眉根を寄せて、またも響樹に顔を近付けながら。


「一緒に帰れないと寂しいですから。私をこんなふうにしてしまった響樹君は責任を取るべきですね」

「……俺のせいか?」


 態度にはわざとらしく不満げな様子を滲ませるくせに、発言の内容が随分と可愛くて頬が弛んだ。

 誤魔化すようにマフラーを摘まみ上げて尋ね返すと、吉乃は大きく首を縦に振った。


「それはもう間違いなく。責任を取ってくれますよね?」


 いたずらっぽい笑みを浮かべながら首を傾けてしなを作る吉乃に「了解」と苦笑を見せると、「わかってもらえて良かったです」と彼女は満足げにもう一度、今度は先ほどよりも小さく頷いた。


「まあでも、俺もそうなってるんだろうな」


 付き合ってからこちら、朝晩や学校にいる時間を除けば基本的に響樹と吉乃は一緒にいる。それが当たり前で、次の日もその当たり前が待っているとわかっているから薄れてはいるのだが、別れ際はやはり寂しいと感じていた。

 会えない日があればきっと、その寂しさは大きなものになるだろうと思わざるを得ない。


「私だけが寂しいのは不公平ですからね」


 握った手はそのままに吉乃との距離を半歩詰め、手のひら以外でも触れ合ったまま今の自分を顧みると、ゆっくりと顔を上げた吉乃は嬉しそうに表情を崩してマフラーに口元を埋めた。


「どっちも寂しくないのが一番だろうに」

「一緒にいなくても平気なのは寂しくありませんか?」

「確かにそうなんだけどな」


 一緒にいられない時間を寂しく感じる事は、気恥ずかしい話ではあるが吉乃への想い故なのだろう。そう考えると寂しい時間も愛おしいものだと思えるような気がして、笑みがこぼれた。

 そんな響樹を見てか、吉乃はくすりと笑う。


「来週は優月さんたちに誘われている日もありますので、響樹君には寂しい思いをさせてしまいますね」

「楽しんできてくれ。前にも言ったけど、吉乃さんが楽しければ俺も嬉しいし、寂しいって事はそれだけ吉乃さんが大切だって再確認できる訳だし」


 からかうような調子の吉乃ではあるが、友人たちと出かける日を待ち遠しく思っている様子はしっかりと伝わってきた。

 心の内には置いておいてほしいが、それでも響樹を気にせず楽しんでほしいと思う。


「そういった……恥ずかしい事を言うのはずるいです」


 丸くした目をぱちくりとさせた吉乃がマフラーをもう一度引き上げ、赤く染まった頬を隠す。高く整った鼻梁が白地を僅かに持ち上げ、潤んだ瞳は少しだけ角度がついて響樹に向けられた。


 その後も正面を向いているものの時折ちらちらと視線を送ってくる吉乃、そんな彼女に笑みを向けると拗ねたようにふいっと顔を逸らされる。

 佐野教諭は吉乃の雰囲気がやわらかくなったと言っていたが、こんなふうに可愛らしく尖ったどこか幼い彼女を、響樹以外の誰も知りはしないだろう。それを思うと誇らしくて嬉しくて、頬が弛んだ。


「響樹君が笑いました」

「別にバカにしたわけじゃないぞ」

「わかりますけど……でも笑いました」


 恨めしげな視線を向けてくる吉乃の、まだ少し色付きの残った頬が少しずり落ちたマフラーの向こうで膨らんでいる。

 自分にだけ見せてくれる姿は可愛らしくてもっと見ていたいが、せっかく待ってくれていた吉乃と話をしながら歩きたいとも思って、少しだけ考えて口を開いた。


「そう言えば吉乃さん、文理選択もう出した?」

「ええ。今日、文系希望で提出してきました」


 急に出した話題ではあったが、吉乃は特に気にした様子も無くはっきりとそう言い切った。ニコリと笑った彼女の表情には晴れ晴れとしたものを感じる。

 それだけで、吉乃がしっかりと納得のいく答えを出したのだとよくわかる。


「そうか。俺の方はさっきまで佐野先生に話聞いてもらって聞かせてもらって、色々考える材料は増えた。期限いっぱいまで考えるけど、この前言った通りちゃんと決めるから」

「はい。響樹君がそう言う以上、私から言う事は何もありません。誰よりも、響樹君の事を信じていますので」


 吉乃の笑みはあまり変わらず、少し目が細められた程度。ただそれでも、示してくれた響樹への信頼は存分に伝わった。


「約束通り私も、しっかりと響樹君の頭を撫でますから」

「それはたのしみだなあ」


 わざと感情を込めずに口にした言葉だったが、お見通しだったのだろう。

 吉乃は「ええ。楽しみにしていてください」と優しく微笑んだ。

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