第93話 二人の変化
「お時間取っていただきありがとうございます」
「受け持ちの生徒の進路指導なんだから当然の事だ。そうかしこまらなくてもいいぞ」
文理の選択締め切りまであと2日。響樹は担任である佐野教諭に放課後の時間を取ってもらい、少し相談に乗ってもらう事にした。
職員室の隣にある進路指導室には初めて入るが、大学入試の過去問集である赤い本や難関大などのパンフレットを始めとした資料、受験情報誌や大学の情報誌などが目につく。意外にも人が多く、本の貸し出しなども可能との事だ。響樹が通されたのはその奥にいくつかある個別指導室。2.5M四方程度の狭い部屋に小さな机と、それを挟んで向かい合うようにパイプ椅子が置かれている。
「この時期にという事は、文理選択の事で良かったか?」
「はい。自分でも考えてみましたが、決めてしまう前に視野を広げたいと思いまして、よろしくお願いします」
吉乃に胸を張って自分の選択を報告したい。だから響樹だけの考えではなく、専門家である教員に相談に乗ってもらいたかった。自分一人で答えを出す事よりも、その方が自信を持てるのだと思った。
「そうか。天羽はてっきり理系一択だと思ってたからなあ、意外だよ」
今年四十歳になるという佐野教諭は、自身のこめかみのあたりでボールペンをカチリと鳴らし、ノートを広げた。白髪の混じった髪の下の表情は、意外だといった割にはどこか楽しげに見えた。
「自分でも漠然とはそう思ってました。ただ、実際の選択を前にして漠然とでいいのかと思いまして」
「別にいいぞ、漠然とでも」
ノートにペンを走らせた教諭は顔を上げ、そう口にする。
「漠然と言っても、適当という意味じゃない。この時期に明確な将来を決めている生徒の方がよっぽど少ない。だから文理どっちが好きで決めてしまう者も多いんだ」
「そうみたいですね」
海も将来就く仕事などはまだ全く考えていないと言っていた。その上で文系に進んだ方が潰しが利くし得意だからと笑っていたほどだ。
「天羽。大学ってのは今や就職予備校のように扱われている訳だし実際その側面は否定できない訳だが。大学は最高学府と言われる場所で、学生にとって本来は学びの場所だ。だから無責任な事を言うようだが、何を学びたいか、つまり何の勉強が好きかで決めてしまう事は全く悪くない。むしろそれが正道だとも言える」
「それは、そうなんですが……もっと将来の事まで考えなくていいのかと」
「考えられるなら考えた方がいいに決まっているがな。それこそ一生に関わる事を十六歳がそう易々と決断できないだろ? 天羽は完璧主義だろうがな、気楽に考えてみればいい。極論三年から転向したっていいんだしな」
その後佐野教諭は自身の経験談や、個人を特定できる情報を伏せながら今まで受け持った生徒の事例などを響樹に話してくれた。直接参考になったかと言えば難しいが、様々な考え方に触れられたの大きく感謝する点である。
そして響樹が「ありがとうございます」と礼を告げると、ははっと笑い、「まあ」と言葉を続けた。
「学校としては天羽は理系に進んでくれれば進学実績的に安泰なんだけどな」
「そんな事ぶっちゃけていいんですか?」
「相手は選ぶさ、私だって」
そう言ってペンを置きノートを閉じた教諭は、少しからかうような表情を浮かべた。
「烏丸と付き合う前の天羽にだったら言わなかっただろうな」
「……どうしてそこでよ……烏丸さんが出てくるんですか?」
「いつもみたいに下の名前で呼ばないのか?」
「何で知ってるんですか……」
進路指導は終わり。それでも席を立たなかったのは、二学期の期末後や終業式の日などに世話になった事もあったのかもしれない。
しかしこの後は先に帰った吉乃との勉強会もある。「用事があるので」と伝えて退出しても良かったはずだ。
「ここは進学校だからなあ。きちんと勉強で結果さえ出せば後は生徒の自主性任せだ」
「はあ?」
響樹の質問には答えず、佐野教諭は話をはぐらかしたのかと思った。
「ただ烏丸は特別だ。あの子は色々と飛び抜け過ぎていて、容姿も成績もだ。だから周囲に与える影響は非常に大きい。多分天羽が思っているよりもずっとだ。だからまあ、品行方正な優等生なのに何度か職員会議で名前が出るほどだ」
「悪い意味ではないんですよね?」
「本人には何の落ち度も無いな。だがまあ、教職員としては注視すべき生徒な事は確かだった」
言いたい事はわかったが少し釈然としない。吉乃の研鑽が彼女自身に窮屈な思いをさせていたというのは理不尽に思えた。
「見てればいつも優等生だ。他の先生方も同じ事を言う。流石にそんな高校生がいる訳がないから素を見せてないのはわかるが、かといって本人が何も口にしないのに勝手に踏み込めない。私は授業で担当するくらいだが、
佐野教諭は肩を竦め、「それが、だ」と苦笑を見せる。
「天羽と付き合いだしてからは、いつ見ても優等生なのは変わらないが雰囲気は少しやわらかくなったよ」
「わかるんですか?」
「教師が毎年何人の高校生を見てると思ってる? もちろん天羽ほど彼女の事をわかりはしないだろうし、何を考えてるかまではわからないが、雰囲気の変化くらいはな」
もう一度肩を竦め、教諭はまた笑う。
「それにまあ、烏丸に特定の相手ができた事で教職員の懸念の一つは解消された訳だ。しかもその相手が一度とは言え烏丸に試験で勝った天羽だからな。これで校内が落ち着くと、職員会議で名前が出たぞ」
吉乃に恋人ができた事で彼女にアプローチをしていた男たちが少し落ち着くという意味だろうと捉えたが、それよりも――
「俺もですか!?」
「ああ」
まさかの事実を知らされた響樹に、教諭はおかしそうに笑いながら大きく頷いた。
「それにな。私としては天羽の変化の方が大きく感じ取れた訳だしな、担任としては嬉しく思うよ」
「俺……僕の変化ですか?」
「天羽は達観していると言えば聞こえはいいが、若いくせに色々と諦めていたようなところがあったからな。それが今では青春真っただ中だ」
「……そうですかね」
「ああ」
生徒の成長を喜ぶ顔とでも言うのだろうか、佐野教諭はそんなふうに嬉しそうな表情をしていた。
◇
「……待ったか?」
校門を出たところに、いないはずの彼女を見つけた。いないはずなのに、響樹が彼女を見間違える事などあり得ない。
彼女の方も響樹にはすぐに気づき顔を綻ばせた。だから、教室から一緒に帰るようになった最近では朝しか使わない言葉をかけた。
「少しだけ」
ほんの少しだけ眉尻を下げながら笑い、吉乃は定型とは違う言葉を返し手袋を脱いだ。
「ありがとう」
先に帰ってくれと伝えた吉乃が待っていてくれた事は素直に嬉しい。待たせた事は申し訳ないが、それに言及するよりは感謝を伝えたくて、響樹は彼女の手を握った。
「どういたしまして」
やわらかな笑みを浮かべた吉乃はきゅっと手を握り返し、響樹の「帰るか」の言葉を待って「はい」と、僅かに首を傾けた。
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