第90話 振り回すのは

「それにしても驚きましたね」


 海と優月が帰ってから食器洗いとテーブル付近の掃除を済ませ、夕食前に少し二人の時間を過ごせるかなと考えていた頃、玄関のチャイムが鳴らされた。

 日曜の夕方に誰だと思って開けた先には先ほど帰った二人がいた。いつものように笑顔の優月と、顔を真っ赤にして気まずそうにしている海が。


「まさか帰り道で付き合いだしていきなり報告に来るなんてな」


 半ば掴まれるように手を繋いでいた海は、「俺たち、付き合う事になったから」と10秒ほど溜めてからようやく口にし、「それだけだから。邪魔して悪かったな」と逃げるように去って行った。

 優月も優月で、「そういう事だから。お邪魔しましたー」と笑いながら海を追って目の前から消えて行った。


「優月さんらしいと言えばらしいですけど」

「まあ、確かに」


 以前の優月の言いようからすれば告白したのが海からなのは間違いないだろうが、報告に関しては優月が引っ張ってきた形だろうと容易に想像がついた。


「尻に敷かれそうだな」


 響樹の苦笑に、テーブルの向こうの吉乃が少し眉尻を下げてくすりと笑う。


「意外に優月さんが……というのは想像できませんね」

「だよなぁ」


 本人が聞いたら怒りそうではあるが、海はきっと激しく首を縦に振る事だろう。


「まあ友達と同じ苦労を分かち合うってのも――」

「同じ苦労? 響樹君がですか?」


 そう思うと何だか少し楽しくなってきたのだが、吉乃は思ってもみなかった事を言われたかのように目を丸くしていた。


「ん? ああ。海も俺も振り回される側だし――」

「響樹君が、ですか?」


 そして今度は丸くしていた目を細め、胡乱な視線を響樹に向けた。声も少し低くなっている。


「俺、吉乃さんに割と振り回されてないか? いやもちろん、そういうのも悪くないって言うか、惚れた弱みと言うかで幸せな感じではあるし、吉乃さんがしたい事を俺に求めてくれるのって凄い可愛いと思うし――」

「そういうところです、響樹君はっ」


 振り回されると言うと語弊はあるが、交際を始めて以降の吉乃は響樹に色んな事を求めてくれる。今まで自分のしたい事がわからずにいた彼女がだ。

 特に恋人らしい事、人目のある場所で手を繋いだり、交際をアピールしようとしたり、響樹からすれば少し気恥ずかしい面もあるのだが、それでもやはり今口にした通り、その全てに幸せを感じていた。

 そんな心情の吐露に対し、吉乃は僅かに頬を染めて「もうっ」と口を尖らせる。


「どう考えても響樹君が私を振り回しています」

「……そうか?」

「そうです。今日だって、優月さんたちの前で色々と……」


 むくれた顔も可愛いと思うのは、吉乃の顔が元々整っているからだけではない。やはり惚れた弱みなのだろう。


「響樹君は、本当にしょうがない人です」


 それもお互いにだ。先ほどまでのむくれた顔も、ため息をつきながらも浮かべた優しい微笑みも、こんな表情は絶対に響樹にしか見せないのだから、可愛いと思わないはずが無いのだ。


「罰としてこちらに来て髪を撫でてください」

「ご褒美じゃないのかそれ?」

「罰です」

「了解」


 優しく目を細めた吉乃からの要求に質問で返せば、口角を少し上げた彼女がニコリと笑う。

 響樹がご褒美のために吉乃の前に腰を下ろすと、彼女は隣に置いてあった紙袋に手を伸ばした。今彼女が座っている黒いクッションを入れて持って来ていた袋だが、よく見るとまだ少し膨らみがある。


「これは、私が響樹君に振り回されている証拠です」


 はにかんだ吉乃が上目遣いの視線を響樹に向けながら胸元に抱くのは、ピンクのクッション。サイズは一番広い部分で吉乃の狭い肩幅よりも更に短いほど。形は、心臓をモチーフにしている事は一目瞭然。


「響樹君はからかっていましたけど、見たいと思っていた事はわかりましたから」


 だから、頬を紅潮させるほどに恥ずかしいのに、吉乃は響樹に見せるためにこうしてくれている。

「どうですか?」と僅かに首を傾げた吉乃の手に少しだけ力が入った。


「うん、可愛い。ありがとう、吉乃さん」


 右手を伸ばして頭の方からそっと髪を撫でながら伝えると、吉乃が少しくすぐったそうにしながらも頬を緩めた。


「本当は買うつもりは無かったんですけどね」


 この上なく手触りの良い髪を梳き、また撫でる。そうした響樹の手の動きを横目で見て目を細め、正面の響樹に視線を戻した吉乃がはにかみながら口にする。


「売り場で見つけて、本当にあるんだなと思って通り過ぎた後、いつの間にか手に取っていました。こちらのクッションよりも先にですよ?」


 今吉乃が座っているクッションを示した後、彼女はくすりと笑った。


「そのくらい、私の心は響樹君に振り回されているんです」


 赤らんだ顔に潤んだ瞳の吉乃はほんの少し眉尻を下げながらも優しく微笑んだが、その腕の中のクッションが少し形を変えた。

 その表情に、仕草に、響樹の心はやはり振り回される。


「お互い様って感じか?」

「そうでしょうか?」


 可愛らしく口を尖らせる吉乃に「ああ」と頷き、響樹はゆっくりと抱き寄せた彼女の頭を自分の左胸にそっと運んだ。

 少し甘い花の香りだけでなく爽やかな髪の香りも相まって、吉乃に存分に伝わった事だろうと思う。


「そうみたいですね」


 肩耳を響樹の胸に当てたまま僅かに顔を上げた吉乃がふふっと笑う。


「好きです、響樹君…………あ。早くなりました」

「いや、その……」

「響樹君、可愛いですね…………また早くなりました」


 天使が小悪魔に変わった瞬間だったと思う。

 その後の吉乃は響樹をからかうように褒めちぎった。しかしそのどれもが彼女の本心から――大袈裟に言ってはいたが――の言葉である事は響樹に十分伝わったので、心臓にはだいぶ頑張ってもらう事となる。


 そんな中で響樹に言葉をかける吉乃の顔もどんどん色付きを濃くしていった。それも鼓動を早くする大きな要因の一つだっただろう。

 もちろん響樹の方も似たような顔色をしているはずだ。


「やっぱ俺の方が振り回されてるって」

「普段のお返しです」


 そう言ってふふっと笑い、吉乃は響樹の胸に顔を埋める。

 そんな様子がまた可愛らしくて心拍が上がり、それを感じ取った吉乃が小さく体を震わせ、それがまた響樹の腕に伝わった。


 自分で言った通り、こうまで振り回されているのにただただ幸福を噛みしめるのみだった。

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