番外編 憧憬と慕情のはざまで②

 時間の問題だろうと思っていた響樹と吉乃の交際も始まってもうじき2週間になる。

 海としてはもちろん一番大きな気持ちは祝福である。そしてその交際をきっかけに響樹がクラスの中で存在を確立した――本人は複雑だろうが――事も嬉しく思う。

 しかし、恋愛に関しては本当によちよち歩きだった響樹に兄気取りでいた事もあって、随分と遠くに行ってしまった弟のような親友に対し、時間の問題だとはわかっていたというのにそれなりに寂しさも覚えた。


 優月のバイトや諸々の事情で中々開催できなかった事情聴取もといお祝いの場も今日ようやく設ける事ができ、今日は祝福と寂しさの両方をぶつけて響樹をからかってやるつもりでいる。


「買い出しこんなもんでいいか?」

「天羽君の家の近くにコンビニもあるんでしょ? 足りなくなったら買い出しに行けばいいよ、海が」

「俺かよ」


 少しそわそわした様子を覗かせつつも楽しげに笑う優月の言葉に半ば反射で反駁してみたものの、実際に必要があれば海が出るだろう事は容易に想像がついた。家主の響樹、女子である優月と吉乃、とくれば自分しかいるまいと。

 そんな海の苦笑は優月にも意図が伝わる。以心伝心と言えば聞こえはいいが、優月はある程度付き合いが長ければ海でなくとも表情や仕草から相手の感情を読む。


「わかればよろしい。量が多くなりそうだったら私も付いてくからさ」

「いいよ。烏丸さんと話してろよ」

「そうするー」

「せめて一回は『悪いよ』くらい言え」

「えーそれじゃあかいにわるいよー。はい」

「棒読みが過ぎるわ」


 あははと笑う優月とそのままの空気感でやり取りを続けて響樹の家に辿り着くと、出迎えてくれたのは当然響樹だった。



「それでは。響樹と烏丸さんが付き合い始めた記念という事で、おめでとう」

「おめでとー」

「ありがとうございます」

「……ありがとう」


 ピザが届くのを待って、海の簡素な挨拶で始まった場。吉乃はやはりいつも通りの穏やかな笑みを浮かべて軽い会釈を見せ、隣の響樹は不本意そうな表情を作っていたがやはり軽く頭を下げた。


 テーブルの上にはピザと海たちが買って来た飲み物の他、吉乃が作ってくれたというシーザーサラダとコーンスープが乗っている。

 響樹が作ってもらっていた弁当とそれを食べる彼の様子からして吉乃が料理を得意としている事は予想していたが、想像以上だった。


 海の誉め言葉と優月の「嫁に欲しい」発言を穏やかな笑顔で受け止めていた吉乃の横で、響樹がピザに手を付けずに取り分けた分のサラダを平らげていたのには少し驚いた。そして食べ終わったと思ったら今度はスープである。

 海の中の響樹は食にそれほどこだわりがある方ではなかった印象なのだが、最近は少し変わっている。


「天羽君、吉乃の作ってくれた物だけじゃなくてピザも食べなよ」

「……これから食うよ」


 呆れ半分でからかう優月の言葉でようやく自分だけが本日の主食に一切手を付けていない事に気付いたのだろう、響樹は気まずげに応じた後でスプーンを手放した。少し間があったのは気のせいではないだろう。


 そんな響樹を隣の吉乃が優しい微笑みを浮かべながら眺めていたのが印象的だった。海や、それよりも親しいであろう優月にさえも向けるのは基本的に穏やかな表情だけなのに、響樹に対してはそれ以外の顔も見せる。

 そしてそれは響樹も同じ。「また作りますから」という吉乃の言葉に対し、ほんの少し目じりを下げていた。海が今までに見た事の無い顔だ。


「響樹、その箸お揃いのか?」

「昨日来客用の食器買うのと一緒に買った」

「昨日のデートでか」

「……ああ」


 同じデザインで色の違う箸を見て思った事を口に出すと、響樹が少しバツの悪そうな返答をし、それに対して優月がニヤリと笑う。


「付き合ってまだ2週間経ってないのに同棲カップル感出し過ぎでしょ」


 実際に海もそう思う。箸以外の食器も海と優月が使っている来客用の物と響樹たちが使っている物は違う。セット商品という訳では無さそうだが、二人で同じ物を使おうという意図は感じられた。


「わざわざ違う物揃えるのもなんか変だろ」

「ええ」


 腹を括ったのか何でもないように言う響樹に、吉乃も穏やかな表情で同調した。

 確かに発言には一理あるのだが、きっと二人の中では同じ物を使う事が当たり前なのだろうなと、そう感じる。


「仲いいねー」


 海と同じ事を感じたのだろう、優月がからかいの言葉を口にした。ただその中に少しだけ羨望が混じっていたような気がして、海の意識がそちらに向く。しかし――


「当たり前だろ」


 言葉の通り当然の事だと言わんばかりの態度でそう口にし、響樹はピザを齧る。

 からかった優月も、そちらに意識を向けた海も固まらざるを得ない。


 当人である響樹も止まった時間を認識したかのように顔を上げ、隣の吉乃に視線をやったところで気付いたらしい。朱に染まった頬と、下がった眉尻、そして恨めしげな視線。きっとそれら全てが響樹にだけ向けられるものなのだろう。



「天羽君て恥ずかしい事平気で言うんだね」


 ゴミの片付けだけを手伝って響樹の家を辞して薄暮れの帰り道を歩きながら、優月は感心したように口にする。


「あいつはああいう奴だから」


 けっして思慮が浅い訳でも口が軽い訳でもない、響樹は自分が言葉にすべきだと思った事をためらわず口にする。ただ少し、羞恥心に鈍感な部分があるだけだ。

 同じ事をしたいかと言われればしたくないのだが、それでもやはり何故か羨ましい。


「だから吉乃も好きになったんだろうねってわかるよ、あれは」

「ああ」


 期末試験の時の事を響樹は話すのを渋っていたが、今日吉乃が語ったところを聞くと、彼女がずっと悩んでいた事に対する響樹なりの解決法があれだったのだという。

 自分のために一生懸命になってくれた響樹に心を動かされたのだと、詳しいところは伏せたものの、吉乃は大切な思い出として語ってくれた。


 響樹は吉乃がそれを語る間、ただただ彼女を気遣っていた。

 テーブルの下で恐らく手を握っていた事に、海はもちろん優月も気付いたはずだ。恐らく響樹本人も吉乃も、気付かれる事など承知の上だったのだろう。それなのに、照れる素振りなど一切無く、海にからかう気など全く起こらなかった。


「その後もね、『吉乃さんと対等になりたかったから』だしね。今日は吉乃がずっと照れてて可愛かったから天羽君グッジョブだよ」


 優月が笑いながら響樹の家の方角に親指を立ててみせるのだが、海にとってその響樹の言葉はあまりに暴力的だった。


 自分は優月と対等にと考えた事などあっただろうか。

 憧れてこうなりたいと思いはしたが、それは優月を自分の一段上に置く事ではなかっただろうか。


 悔しいと思った。響樹に対してではなく、自分に対して。3年以上を一緒にいた優月、3年以上ずっと想い続けてきたと思っていた優月。

 間違いなく恋愛感情を持っている。しかしそれを、海はきっとそれを憧れで薄めていた。


 告白して振られたら今の関係が壊れる。それは間違いの無い事実だと思うし、海の恋心を押し留めていた要因の一つではあるのだろう。

 だが気付いた。海が優月に告白をする事ができなかった一番の理由は、優月に感じ続けていた引け目だ。憧れた彼女に自分はまだ相応しくないと、そんな言い訳をしていた。


「敵わないなあいつには」


 自嘲ではなく本心からの言葉だ。それなのに――


「海には海のいいとこがたくさんあるよ。っと!」


 ばちんと、優月が思い切り海の背中を叩いた。


「痛いぞマジで」

「叩いた方も痛いんだよ!」


 わざとらしく頬を膨らませた優月が、少し赤くなった手のひらを「ほら」と海に向ける。


「海みたいに誰とでも上手くやるってのは天羽君には多分無理じゃないかな。海は元々内向的だった分人間観察得意だし、間に入って折衝だって上手くやるでしょ。たかが高校生の人脈って思うかもしれないけど、そういうのだって何で活きるかわかんないよ? 事実天羽君の助けにはなったよね、試験の時」

「それだって優月の真似だ。しかもお前みたいに天性のものじゃなくて、紛いものだ」

「ほらそれ。私のいいとこだと思ったもの、吸収して自分のものにしたじゃん。元々人と話す事苦手だった海がだよ? 私は元々こんなだから大して苦労もしてないけど、大変だったでしょ? 最初の頃なんて――」

「それはやめろ」


 真面目な顔に少しニヤケが混じった優月に黒歴史をほじくり返されそうになり、海は慌てて止めに入る。


「海は人のいいとこ見つけるの上手だし、天羽君のいいとこも吉乃より先に海の方が気付いてたんだし、もっと自慢してもいいよ」

「会ったのが先なだけだろ」

「そうかもね」


 ずっと憧れだった優月にこうまで褒められる事など今までなかった。海が自虐のような事を口にしたのが理由だろうが、嬉しかった。


「ありがとな、優月」

「うん」


 満面の笑みを向ける優月がハイタッチを要求するので、海はその手のひらに自分の手のひらを合わせた。求められた速度ではなく、以前響樹たちが見せたゆっくりとした動きで。


「海?」

「好きだ優月。俺と付き合ってくれ」


 関係が壊れてしまうかもしれない、それでも。今言わなければ優月に対する想いそのものが壊れてしまう気がした。

 島原海が花村優月に抱く感情は憧憬と慕情の両方で、それはきっと今後もそうだ。だがそれでも、彼女に伝えるべき感情はその内の一つだけだ。憧れは持ち続けても、追い付いて隣に立つための憧れにする。


「やっと言った」

「え」


 嬉しそうに笑った優月が見せた、少し赤い顔。恐らく照れている表情は、初めて見る。


「……お前、知ってたのか?」

「うん」

「おい……おい。え? なんで?」

「まあそれは道中で話そうよ」


 そう口にした優月は合わせたままの手をぎゅっと握り、海を引っ張った。帰り道とは反対方向に。


「どこ行くんだよ?」

「あの二人に報告に戻ろうかなって。善は急げってやつ」

「いや何の報告だよ。え、ちょっとマジで待って」

「私に彼氏ができた報告と、海に彼女が出来た報告に決まってるでしょ?」


 そう言って走り出した優月に手を引かれ、憧れに追い付くのはいつになるのだろうなと、海は苦笑した。

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