番外編 憧憬と慕情のはざまで①

 初恋の女の子は彼にとってヒーローだった。

 もちろんテレビの向こうで悪を倒すような存在などではなく、現実にいる普通の女の子ではあるのだが、島原海にとって彼女、花村優月は間違いなくヒーローだった。


 高校からの海しか知らない者に話したところで多分誰も信じてくれないだろうが、小学校までの海は内向的な少年で、友人も少ない方だった。

 中学生になった海にとって不幸だった事は、通っていた小学校の学区の都合上凡そ半分の同級生が別の中学に通う事。つまりただでさえ少ない友人が中学に入るともっと少なくなってしまった訳だ。


 不安で仕方無かった入学式の日、指定された教室に知り合いはいなかった。同じ小学校で見た事のある顔はいたが一度も話した事の無い相手であったし、何より向こうは海に気付いた様子は無かったので話しかけられるはずもない。

 結局海はこの日、ほとんど誰とも話さずに帰宅した。


 内向的でこそあったが一応海も思春期付近という事もあり、友達ができなかったなどと両親には相談できず、三つ年上の兄に相談してみた。


「何とかなるだろ、その内」


 こいつに聞いたのが間違いだったと思うほど兄の答えは適当だった。とは言え兄は「その内嫌でも話す相手はできるだろうし大丈夫だ」と、一応海に気を遣ってくれていたらしい。

 そしてまあ、実際何とかなってしまったのだ。


「島原君て市立第三小学校三小だったよね?」


 最初の一週間最後の日の午後だった。いまだ休み時間に話す相手がいなかった海に、人懐っこそうな笑みを浮かべた彼女が話しかけてきたのは。


「そうだけど……それがどうかした?」


 警戒心丸出しで応じてしまった事に海は内心で後悔した。

 話しかけてきた相手は花村優月。たった一週間しか経っていないのにクラスの誰とでも話すような明るい女子である事はわかっていたので、そんな彼女を邪険にしてしまったようで余計に友達ができなくなるのではと。


「小学校の時に塾で一緒だった子に三小の子がいてさ、中学は向こうの方だけど、島原君知ってるかなって」

「連絡先とか知らないの?」

「知ってるし連絡もするけどさ、何となく?」


 しかし優月はそんな海の懸念など知らないというふうなまま。

 海が優月の友人を知らなかったため話は続かなかったが、彼女は「またね」と笑って去って行った。


(社交辞令だろうな)


 そう思ったものの少しだけは期待していたので、優月が翌週にまた話しかけてくれた時は嬉しかった。

 この時も結局大した話はしなかったのだが、優月はやはり「またね」と笑った。


 それから花村優月という少女を少し観察してみたのだが、彼女はいつでも笑顔だった。

 そしてクラスの中心にいるとばかり思っていた優月は、意外にも海のいるような隅っこの方にもちょこちょこと足を伸ばしていた。


 この時は海のような一人ぼっちをクラスの輪に入れようとでもしているのかと、身勝手ながら少しばかり怒りを覚えたと記憶している。

 しかしその後何度も海に話しかけてきた優月は、ただの一度も無理やり海を引っ張っていくような事はしなかった。


 優月と話す内容は世間話のような物がほとんどではあったが、その中で彼女が誰かを悪く言うような事は一度も無く、誰かを褒める事が多かった。

 他愛の無い話ばかりであったが、太陽のようなという形容が相応しい優月と話していると自然と海も明るくなり、彼女を介さずともクラスメイトと話す事が増える。そしてそんな流れがクラス中で広まり、輪から外れる者はいなかった。


 しかしクラス全体の大きな輪、個々のグループの小さな輪、そのどちらにおいても優月は中心にいなかった。好きな時に好きな輪に入ってあちらこちらに顔を出す。ともすれば八方美人と謗られるような事を平気で行い、それでいて誰も彼女を悪く言わなかったし、青春ドラマのような一体感とは違うが妙な仲間意識がクラスの中にはあった。

 花村優月はどこにでもいて皆を照らす太陽のようだと、そんな恥ずかしい事を大真面目に思った。


 ずっと後に優月にこの事を話した――太陽云々はもちろん言っていない――際には「過大評価だって」と笑われるのだが、中学一年生の海はそんな彼女を尊敬したし、憧れた。


 恩義も感じてはいたがやはり憧れが強かった。だから優月のようになりたいとまずは形から入ることにしたのだが……一年の夏休み明けは海にとって半ば黒歴史である。



 そんな黒歴史から2年半経って高校入学後、残念ながら優月とクラスは別れてしまったが海が一人ぼっちになることはもう無かった。

 優月のおかげで身についたコミュニケーション能力と観察力で入学後すぐに友達はできたし、1週間もする頃にはクラスの中心にもいた。だがそれは海の憧れた姿とは少し違う。


 もちろん高校生と中学生とでは考え方も変わるだろうし、ある程度は仕方の無い事なのだろうが、海の中で優月ならばもっと上手くやるだろうという考えは常にあった。

 そんな時に見つけたのが、空気が読めない、ノリが悪いとレッテルを貼られて孤立しがちなクラスメイト。

 ちょうどいい、自分がどれだけ優月に近付けているかを試すいい機会だと、海は彼に近付く事にした。


「なあ、天羽って数学得意だろ?」


 そんな言葉から始まった交流は、すぐに海に消え入りたいほどの羞恥を与える事になる。

 天羽響樹というクラスメイトは確かにノリが悪いところもありはしたが端的に言っていい奴で、自身の邪な思いを徹底的なまでに恥じる事になった海は、それ以降響樹を親友と思うようになる。贖罪の意図ではなく、ただ自分でそうしたいと思った事が理由だ。


 響樹をクラスに馴染ませようという試みは結局失敗したが、それは彼自身が「別にいい」と口にした事を多分本気で思っていた事と、あとは真剣な顔をすると人によっては不機嫌に見えるほどに鋭い目つきが原因だったと思う。

 優月のようにできなかった事は悔しかったが、その内周りの連中も響樹の良さに気付くだろうと、この頃はそんな気でいた。


 それが変わったのは二学期の期末試験が近付いて来た頃。海は「頼みがある」と親友に頭を下げられた。見た事が無いほどに真剣な顔をした響樹は、「試験でどうしても勝ちたい相手がいる」と口にしていた。

 その相手が誰かは聞かずともわかった。理由も何となく察しはついた――後に聞いたところまるで違ったようだが――のだが、どうしてこれほどまでに真剣な、悲痛なまでの覚悟を決めたような顔ができるのかわからなかった。


 勝てる訳が無いと、そう考えた。正直失礼ながら相手は化物の類だ。県下のトップ高のその更にトップクラスの連中を歯牙にもかけない成績を叩きだす烏丸吉乃に、試験まで3週間を切ったところから勝てる訳が無いと。海ならば自分だけ1年のアドバンテージを貰ってもなおまるで勝つビジョンが見えないほどだ。

 いくら過去問や傾向分析等の対策を行うとしても、いくら数学という得意科目のある響樹と言えど、勝てるとは思わなかった。


 それでも勝たせてやりたいと、勝ってほしいと思ったのは、やはりこの親友がひねくれているように見えてどこまでもまっすぐな奴だったからだろう。好きな女子に勝つために死力を尽くす、力を貸してくれなどと普通は恥ずかしくて口にできない。

 その後見るからにボロボロになっていく響樹をクラスの連中が心配していたが、海だけは応援の気持ちの方が強かったと自負している。


 そして試験後、響樹は見事に本懐を遂げる事になる。

 応援こそしていたものの、だいぶ心配をかけられたので色々と言ってやりたい気持ちはあったのだがまあそれはそれ。この頃から響樹を取り巻く環境が目に見えて変わってくる。

 烏丸吉乃に試験で勝つというのはそれだけ大きな事なのだ。


 そしてその吉乃本人も、彼女と響樹の関係も、この辺りから変わったのだと海は思っている。


 吉乃と言えば優月と同じクラスで、優月から何度も話を聞いていた。

 曰く、「笑顔で話してくれるんだけど、すんごい壁を感じる」だそうだ。しかし――


「最近烏丸さんだいぶ感じ変わったと思う。表面には全然出さないしみんな気付いてないけど私にはわかる」


 ある日の帰り道で優月はそんなふうに言っていた。

 海にとってのヒーローが変えられなかった少女を、親友は変えた。


「きっと天羽君だよね」

「たぶん、そうだろうな」


 優月の言う通り表向きの穏やかな表情からは感情の変化が読み取れないのだが、ファミレスで一緒になった時に響樹に気を許している事だけは伝わった。

 響樹の弁当も吉乃が作った物だと言うし、いつの間にか二人の仲は急激に進展していた。響樹は多分自覚していないのだろうが。


「凄いよね、烏丸さんに勝つんだもん」

「ああ……」


 心底感心したように言う優月に、海も同意した。二つの意味で。

 優月の「凄い」は響樹の能力と努力に対する賞賛だろうとわかるが、海はそこに響樹の意思の考え方への賞賛を含めた。


 響樹は好意を向ける相手である吉乃に勝ちたいと、勝って堂々と伝えたい事があったと口にした。まあそれが告白の言葉で無かったのには呆れたが。

 しかし実際にそれで勝ってしまった事にも驚くのだが、それでもやはり海にとってはそんなふうに考えられる事が凄いと思えた。


「ほんとにな」


 もちろん海としても好きな相手である優月に成績で勝ちたいとは思うのだが、響樹の思いはきっとそういう事ではない。

 ただそれでも、プライドなのか好意故の行動なのかそれはわからなかったが、響樹を羨ましいと思った。優月に抱いた憧れとは少し違う、ただ羨ましいと思った。

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