第86話 息の合った恋人同士

 三学期が始まって既に6日目、土曜の半日授業が終わった。

 クラス内では海の言う通り初日に――より正確にはずっと――いじられた事もあり、吉乃との事で敵意を受けるような事態も無く、響樹の羞恥心以外は平穏無事である。


 教室の外においてはまあ、色々な噂が流れたらしい。その結果に加えて誰もが知る吉乃の恋人として、更に言えば最近知名度が上がっていたせいもあり、響樹の名前がほぼ全校の知るところとなったと聞いている。

 噂のほとんどは響樹が吉乃に無理やり交際を迫ったという類のものだったそうなのだが、海や優月と互いのクラスメイトたちがそう言った嘘を否定してくれていた事も知っていたので、腹は立たずむしろ嬉しかった。


 吉乃も同じだったようで、噂に多少苛立たしさを見せてはいたが、「それでしたらもっと仲のいいところを見せなければいけませんね」と小悪魔の笑みを浮かべ、放課後は毎日響樹を迎えに来ていた。

 そして今日は逆に響樹が吉乃を迎えに行く日。「私ばかりずるいです」と上目遣いで見つめられては断る事などできない。


「響樹、飯でもどう……あ! 今日は烏丸さんとデートに行く日か!」

「うるせーよ。知ってたくせに白々しいなお前」


 鞄を持って立ち上がり、隣のクラスへ足を踏み入れる覚悟をしようとしたところで、わざとらしくとぼけた海がクラスの笑いを誘う。

 実際こういう扱いのおかげでクラスメイトが味方になってくれているので助かるのだが、恥ずかしいものは恥ずかしい。

 吉乃から聞く限りでは彼女の方は一切いじられる事無くクラス中が味方だそうで、やはり扱いの差を如実に感じる。


「早く迎えに行かないとな」


 わざとらしく軽薄な笑みを浮かべた海の言葉に不承不承ながら「ああ」と頷くと、クラスの男子たちから不満が漏れる。


「今日烏丸さんこっち来ないのか?」

「そのために帰らずにいたのに。癒しが……」

「無能」


 響樹との交際を公にして以降、吉乃の美しさには磨きがかかったと評判である。

 表情こそ以前と同じでほとんど穏やかな笑みを浮かべたままではあるが、吉乃なりの他者へのアピールなのだろう、響樹に対してはにかんでみたりさりげなく可愛らしい笑みを見せたりと少し違う顔を見せる事も稀にある。恐らくそれが彼女の評価を更に上げる原因になっているのだろうと思う。


「人の恋人を目の保養扱いするな」


 響樹としては吉乃に親しみを抱く者が増える事は喜ばしいし、彼女が綺麗だ、可愛いと言われれば嬉しい。

 しかしだからと言って彼女をそう言った目で見られる事に対してはやはりまだ複雑な思いがあった。


「大丈夫だ。やましい感じじゃなくてこう、なんて言うかあれな感じ?」

「そうだ。美少女は見てるだけで癒されるんだ。視界に入れるくらいいいだろ」

「器ちっせーぞ天羽」

「お前らなあ……」


 初日から3日目くらいまでは興味津々といった様子の女子たちの餌食になっていた響樹だったが、週の後半になる頃からは男子連中から徐々にこういう扱いを受け始めて今ではこれである。

 海ほど上手にラインを見極めていじる訳ではないのでたまに多少腹の立つ事もあるが、やっかみが含まれているにせよ少なくとも彼らからは祝福の意図が感じられる。だからまあ、気恥ずかしさを含めても総合的には正の感情がだいぶ勝っていた。


「じゃあな響樹。また明日な」


 そんなクラスメイトと響樹のやり取りを見てか、どこか微笑ましい物でも見るかのように笑った海がそう締めくくり、響樹もそれに応じて彼らに茶化されながら隣の教室に向かう。


 集中できないまま教室を出たのでどうやって吉乃を呼び出そうかと緊張していたのだが、二組の教室を覗いた瞬間に目が合った。しかし吉乃は穏やかに微笑んだのみで、すぐに近くの女子との会話に戻ってしまう。

 呼び出してほしいという意思表示だと感じた。きっと大きくは間違っていないはずだ。


「吉乃さん」


 吉乃が望むところのアピールの一環でもあるし、彼女が今なお高い人気を誇る事も先ほど実感させられたばかり。響樹自身、自分が恋人なのだと示しておきたい気持ちも強く、ためらいなくその名を呼んだ。

 呼びかけよりも先に響樹に気付いていた者もそうでない者も、土曜の授業終わりに半分ほど残っていた生徒の視線が一斉に向く。


 何人かは見知った者もいる女子からはやはり好奇の視線、そして僅かばかりの黄色い声。

 ほとんどを知らない男子たちからは、どこか敵意のある視線も少しだけ混じっていたような気がする。


 最近は視線を浴びる事もだいぶ増えたのだが、何度味わっても慣れない。しかし今だけは、むしろ視線を集めて良かったと思う。

 今響樹が名前を呼んだ恋人の、優しく目を細めた可愛らしく綻んだ顔を独占できたのだから。



 二組の教室で少しいじられて――もちろん響樹だけが――から学校の外に出て、歩を進めるのは二人の家方向ではなく駅の方。

 駅方向に向かう学生は多く、ここでもまだ視線をひしひしと感じる。


「しかし俺ばっかいじられるよな」


 今週の出来事を振り返りながら愚痴をこぼす響樹の横で、実際は不満に思っていない事がわかるのだろう、吉乃は優しい微笑みを浮かべながらずっと話を聞いてくれていた。そんな彼女だが、響樹がこれ見よがしについてみせたため息の後に口元を押さえてくすりと笑う。


「吉乃さんまで笑う」


 優しい表情のまま、どこか嬉しそうに笑った吉乃は「拗ねないでください」と口にしてふふっと笑った。


「響樹君が島原君以外のクラスメイトの話をするなんて初めてですからね」

「……そうだったか?」


 とぼけてみせたが、優しく微笑んだままの吉乃の記憶力を前に嘘はつけない。


「吉乃さんのおかげだろうな」


 元々響樹の恋愛嫌いによって拗れた関係で、吉乃という恋人の存在がそれを正してくれた。

 あの烏丸吉乃が碌でもない人間を恋人にするはずが無いという信頼は、天羽響樹の人間性をある程度担保してくれたものだと思っている。


「違いますよ。響樹君の良さが知れ渡った結果です」

「そうか?」


 胡乱な視線を向けてみたのだが、吉乃は「ええ」ときっぱり頷いてみせた。


「自信を持つべきですよ。響樹君には素敵なところがたくさんありますから。色んな人がそれを知ってくれる事は私としても嬉しいですし、誇らしいです」


 吉乃から素敵だと言ってもらえた事ももちろん嬉しいし自信になる。しかしそれ以上に嬉しいのは、響樹が吉乃について考えていた事と同じ、それを彼女も響樹に対して思ってくれていた事だ。

 優しい微笑みを浮かべていた吉乃は、「女子にはあまり知られたくありませんでしたけど」とほんの少し眉尻を下げた。これも響樹が思っていた事に少し似ていて笑いがこぼれる。


「どうしましたか?」

「似たような事考えてるなあと思って」


 少し首を傾げた吉乃に答えると、彼女は一瞬だけ目を丸くした後で僅かに朱に染まった顔を綻ばせた。


「なんだか、息の合った恋人のようでいいですね」

「元々そうだろ」

「……本当に響樹君は、臆面もなくそういう事を言うんですから」


 ほんの少し恨めしげな上目遣いで響樹を見つめ、口元へマフラーを摘まみ上げかけた吉乃の手が止まる。

 そうかと思えばふふっと笑った吉乃が小悪魔の笑みを浮かべていた。


「息の合った恋人の響樹君は、今私が考えている事もわかりますよね?」


 そう言って可愛らしく首を傾げた吉乃は、右手に持っていた通学鞄を左手に持ち替え、更にもう一度右手に持ち替えた。


「まだだいぶ人目があるぞ?」


 周囲を少し見回してそう言えば、意図が通じた事で吉乃が嬉しそうな笑みを見せる。

 そうして綺麗な黒い瞳を期待に輝かせたかと思えば、響樹の右手にやわらかなものが触れた。


「……視線が痛い」

「嫌ですか?」


 周囲からの視線をより一層感じ、マフラーを引き上げながら呟く。

 しかしまたも首を傾げた吉乃の表情は楽しげで、響樹の感情などお見通しなのだろう。


「吉乃さんと同じ気持ちだよ。息が合ってるからな」

「知っています」


 ふふっと笑って頷いた吉乃は、「息の合った恋人同士ですから」と手を繋いだまま響樹との距離を半歩詰めた。

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