第80話 二者二様
吉乃の反応を直視できなくなったので顔こそ逸らしたものの、やわらかな彼女の髪を撫でる手は止めず、感覚のリソースを手のひらに割き続けた。
しかし流石にそろそろかと、壁の時計を見て思う。もっとこうしていたくはあるが、あくまでこれは勉強の気分転換。あまり吉乃を拘束し続けても悪いし、何より切り替えのできない男だと思われたはくない。
「さてそろそろか」
せめてもの抵抗で髪を撫でながら声をかけたのだが、吉乃の反応が無い。
「吉乃さん?」と顔を戻した響樹の目には自分の右手と、その向こうでまどろみの中にいる吉乃が映る。
すぅすぅと規則正しい寝息をたてた吉乃は横隔膜の動きに合わせて胸元が少し動く程度。ソファーに預けているとはいえ体はだれる事なく、遠目からならば瞑想でもしているように見えるかもしれない。
(隙だらけだな)
眠っているのだから当然だが、無防備も無防備だ。「響樹君の前ではだいぶ弛んでいますよ」と、初詣の時に聞いた言葉を思い出して頬が弛む。
昼食をとってしばらく後の休憩という事もあって多少の眠気があったのだろうが、吉乃がこうやって睡魔に身を委ねてしまったのは響樹の隣だから、加えて髪を撫でられて心地が良かったから。そう都合よく解釈しておくことにした。
(どうして起こしてくれなかったんですか、とか怒られそうだな)
寝顔が可愛かったからとでも答えようかと思って触れていたままの手で髪を一撫ですると、吉乃が「んぅっ……」と小さな声を上げた。
少しだけ艶めかしさを覚えてしまった罪悪感に苛まれて手を離すと、今度は「んー」と少し甘えるような声とともに、手を求めてくれたのだろうか、吉乃の頭が響樹の方へ僅かに動く。
そしてその先には当然響樹がいる。結果、眠り姫は響樹の肩に寄りかかる格好になった。
吉乃が響樹の肩に頭を預けるのは初めてではない。むしろ今回のように無意識の時ではなく彼女の意識下で行われる場合の方が響樹にとっては嬉しいし、心臓の鼓動は早くなる。
今回は安らかな気持ちと言うか、優しい気持ちになれる。庇護欲をそそられるのとも少し違う。絶対に他人には晒す事が無いであろう無防備で可愛らしい姿を見せてくれる吉乃に対して抱く感情は、やはり愛おしいという言葉が一番しっくりきた。
「おやすみ、吉乃さん」
吉乃が睡眠不足になるような生活をするとは思えないし、仮にそうであったとしても今の響樹ならば気付けるはずだ。
幸いに部屋の中は暖房が効いていて暖かいし、十数分程度の仮眠であれば夜の眠りにも悪影響は無いだろうと、響樹は現在時刻を確認してから吉乃の髪をそっと撫でた。
右側にいる吉乃の首の後ろに腕を通し、彼女の頭の右側をそっと。
吉乃が響樹の肩に頭を預けている以上、撫でるにはこちら側からしかないのだと自分に言い聞かせながら。撫でないという選択肢は無かった事にしながら。
◇
15分ほどしたら起こそうかと思ってから約10分、響樹の右手は吉乃の頭と髪から離れずにいる。
いっそ肩でも抱こうかと思ったが、吉乃が起きている時にした事も無いのに寝ている時に行うのはいかがなものかと
そんな響樹の葛藤など全く関係無く安らかな様子を見せる吉乃は、規則正しい静かな寝息をたてながら、響樹の肩に頭を預けたままではあるが基本的に綺麗な姿勢で夢の中にいる。
「ん……ぅ」
ただ時折、頭を撫でる響樹の手の動きに呼応するかのように、少しくすぐったそうな甘い声をあげる。それに合わせて僅かに口角が動き、安らかな寝顔の上に心地良さそうな表情を浮かべていた。
響樹としてはそんな様子を存分に見ていたい気持ちが強かったが、理性を保ったままでいられる自信が無かったので途中からは顔を逸らした。まあ、声だけでも十分な破壊力なのだが。
(あと5分で起こせるか?)
などと言う事を思ってみても起こさない訳にはいかない。響樹が自分の欲求に負けて吉乃の生活リズムに悪影響を与える事などあってはならない。
しかし、ならばその5分は堪能させてもらおうと吉乃の頭を撫で、そのまま梳いて、またそれを繰り返す。手のひらと指で感じるやわらかでさらさらとした感覚、何度でもそれに幸福を覚えてしまう。
「ぅう……ん」
そうしているうちに吉乃が僅かに体を動かした。5分にはまだ早いが起こしてしまったかと顔を向けると、ほんの少し動いた彼女のまぶたがその長い睫毛を揺らす。
焦点を結ばないままゆっくりと開いていく瞳が普段の半分ほどの大きさになった頃、吉乃はか細い声で「ひびきくん?」と名前を呼んだ。
「ああ。おはよう、吉乃さん」
「……おはよう、ございます?」
響樹の肩に預けていた頭を僅かに持ち上げた吉乃は上がったまぶたと同じく、まだ半分ほど夢見心地に見える。
そんな吉乃の頭をもう一度撫でると、彼女は心地良さそうにふふふと笑った後で「響樹君」とどこか甘えるような調子で口にし、持ち上げていた頭を響樹の肩に乗せ直し……しばらくしてからゆっくりと持ち上げた。真っ赤な顔で、見開いた目で響樹を見つめながら。
「どうして起こしてくれなかったんですか?」
「寝顔が可愛かったから?」
予想と全く同じ言葉の吉乃に苦笑しながら、響樹の方も用意しておいた言葉をかける。彼女の反応は怒りではなくきっと羞恥なのだろう、華奢な肩がほんの少し震えていた。
「うぅ」と小さく可愛らしく唸りながら響樹に上目遣いの恨めしげな視線を送る吉乃は、自分の頬や口元を確認するようにぺたぺたと触り、何かに気付いたような反応を見せた後は特に左頬を重点的に触っていた。真っ白な肌は見る影もない。
「顔を洗ってきます」
そう言ってソファーから跳ね上がるように立ち上がった吉乃が向かった先は何故か彼女の私室で、その後15分ほど戻って来なかった。
◇
戻って来た吉乃は何もなかったかのように穏やかな笑みを浮かべていて、響樹も特に何かに言及する事無く勉強を始めた。響樹が撫でた事と寄りかかって寝てしまった事による髪の乱れは整えられており、やわらかな頬にあった跡も存在しない。
勉強の最中、テーブルの向こうから時折吉乃がちらちらと視線を送ってきていたのには気づかないフリをしておいた。目を合わせたらきっとだらしのない顔をしてしまうだろうから。
しかし時間が経てばそれも少なくなる。響樹の方もたまに吉乃へと視線を向けるが、互いのタイミングが合う事は無く、ただ静かな時間が流れるだけ。
あんな事があってもやはり吉乃の集中力は流石の一言で、向かい合った響樹にも好影響を与えてくれる。結局彼女がぎこちなかったのは最初だけで、その後は夕食前の勉強会終了まではあっという間だった。
吉乃がだいぶ渋りはしたが、夕食の支度については響樹も手伝わせてもらう事になっている。それまで少し休憩という事で二人でソファーに座ると、吉乃が響樹の手を握った。
突然の事で心臓が高鳴りを自覚しながら吉乃へ顔を向けると、はにかんだ彼女が僅かに首を傾げる。
「響樹君。お疲れでしたら少し横になってもいいですよ」
「……俺に寝顔晒させたいだけだろ」
苦笑しながらそう応じると、口元を押さえてくすりと笑った吉乃が「バレましたか?」とほんの少し眉尻を下げた。
「私ばかり、不公平です」
「俺の寝顔じゃ、見せたところで吉乃さんの寝顔とは釣り合わなくて不公平だろ。天使って感じだった」
「もうっ。響樹君は」
わざとらしくムスっと口を尖らせた吉乃が「でも、だから」と優しい笑みを浮かべながらつないだ手を離し、そっと響樹の頭に運んだ。
「響樹君もやわらかな髪質ですね」
「そうなのか?」
「ええ」
優しく響樹の髪を撫でてくれる吉乃の手は心地良い。
そしてその表情は姉のものではなく、恋人のもの。大切な物に触れるように嬉しそうにゆっくりと、響樹の頭を撫でる。
「すっごい気持ちいい」
「ではもっとします。眠くなったらいつでも寝ていいですからね」
ニコリと微笑んだ吉乃だが、響樹は頷きながらもきっとそうはならないだろうと内心で苦笑した。
愛おしいものに愛情を注ぐかのように優しく触れてくれる吉乃の手のひらは大変に心地良い。本当に幸せで、眠くなってもまるでおかしくない。
ただし、これほどまでに心拍が速くなり、精神が高揚していなければの話だ。
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