第79話 濡羽色の上を

「明日からも私の家で構いませんか?」

「それはいいけど、毎回だと悪くないか?」


 初詣の後も吉乃の家で過ごして夕食までをごちそうになり、名残惜しい別れ際。残り4日の冬休みもこうやって過ごそうと約束をした後の提案である。

 吉乃の部屋の方が広くソファーもあり、勉強をするにも休憩をするにも確かに便利ではあるのだが、世話になりっぱなしは気が引ける。


「響樹君が毎日家に来てくれるのに、どこに悪い事がありますか?」

「……それはどうも」


 僅かに頬を染めた吉乃がニコリと笑う。響樹を恥ずかしい事を平気で言うと評したくせに、吉乃本人も中々恥ずかしい事を言う。

 面と向かってそんな事を言われてしまえば――しかも可愛らしく首まで傾げて――響樹としては提案に頷くしかなく、吉乃はふふっと笑う。


「それに、響樹君の家ですと響樹君が私を送ってくれるので、その分時間を使わせてしまいますからね」

「別にそれは気にしなくていいけどな。軽い運動も兼ねてるし、何よりあの時間好きだし」


 二人で勉強をする静かな時間も好ましくはあるが、吉乃と並んで歩く時間も好きなのだ。恋人になってから手も繋ぐし、彼女の反応も可愛らしいものが増えているので余計に。

 そんな響樹の言葉に吉乃は嬉しそうに目を細め、少し頬を緩ませた。


「その分は勉強の合間に一緒に散歩をしませんか? この辺りを案内するという約束もありますので」

「ああ、それはいいな」

「それでしたら決定という事で」

「了解」



 そんなやり取りをしてから翌日翌々日と三が日はあっという間に過ぎ、冬休みも残すところ今日も含めてあと2日となっている。

 吉乃と一緒の勉強会はやはり捗る。恋人になった後なので集中できないかもしれないと思いもしたが、杞憂でしかなかった。吉乃の前で集中力を乱すような無様は晒せないし、何より関係性の変わった彼女を視界にいれるだけで今までよりも気合が入るような気がした。


 加えて吉乃との散歩もご褒美の役割を果たしてくれている。吉乃と手を繋いで歩くと、冷たい外気すらどこか心地良く感じるくらいに。

 一昨日の散歩では吉乃が買い物で使うドラッグストアや書店など、彼女の生活圏を案内してもらった。吉乃は「こんな事でいいんでしょうか?」と眉尻を下げていたが、響樹としては一緒に歩ける事以外にも、彼女が過ごした今までを少し知れたような気がして嬉しかった。


 昨日の散歩では近所の公園に連れて行ってもらい、何をするでもなくただ二人で会話をしながらベンチに座っていた。

 そして今日はどこへ連れて行ってもらおうかと思っていたのだが、外は生憎の雨。散歩代わりの休憩時間はソファーでとなる。


「私は雨、好きですよ?」


 降雨を残念がった響樹に対して、隣に座る吉乃が響樹の肩に頭を預けながら楽しそうに笑った。


「そうなのか? 女の人は特に雨が嫌いだと思ってたけど。髪とかに影響も大きそうだし」

「私は髪質的にそれほど影響を受けませんけど、確かに湿気が多いのは嫌ですね」

「髪質?」

「ええ。癖毛の方だと影響が大きいとは聞きますね」

「ああ、吉乃さんの髪だと縁遠そうだな。凄い綺麗なまっすぐだし」


 響樹にとって綺麗な髪と言えばもはや吉乃のためにある言葉だと思うくらい、色つやだけでなく重力に逆らう様子など一切無く上から下へとまっすぐ流れる黒髪。

 吉乃は響樹の肩から頭を離し、「ありがとうございます」とはにかみながら一房を持ち上げてみせた。


「ほんと、綺麗だよな」


 持ち上げる最中でも吉乃の白い手の上からさらさらと少しずつ零れていく濡羽色の髪。一体どれほどなめらかなのだろうと思ってしまう。


「ありがとうございます……触ってみますか?」

「いいのか!?」


 上目遣いの吉乃に食い気味で尋ね返すと、一瞬目を丸くした彼女が口元を抑えてくすりと笑った。


「ほんとにいいのか?」

「……響樹君は私の何ですか?」

「……彼氏です」


 少し呆れたように小さなため息をついた吉乃に応じれば、薄っすらと染めた顔に嬉しそうな笑みを浮かべた彼女が、「正解です」と響樹へと髪を一房差し出す。

 ずっと綺麗だと思い続けてきた吉乃の髪。艶やかな、LEDの光を受けて僅かな青みを覗かせる、本当に綺麗な髪。正直に言えばずっと触りたかった。


「それでは、触らせていただきます」

「……なんだか、私本人に触ってくれる時よりも緊張していませんか?」

「正直そうかも」

「自慢の髪ではありますけど、そこまで言われると複雑です」


 胡乱な目に加えて頬を膨らませた吉乃は更にそこから口を尖らせ、髪を支える手を引いてしまった。

 千載一遇を逃してはならないと慌てて伸ばした響樹の手が空を切り、そのまま首と肩から力が抜ける。


「……そんなに落ち込まないでください。ちょっとしたいたずらのつもりでしたけど、とても心が痛みます」


 どこか気まずげな声の後、伏せた響樹の視界に映る自身の手に吉乃の手がそっと触れた。だけでなく、優しく響樹の手首を掴んで持ち上げ、ゆっくりと髪へといざなった。

 指先に触れた感触に慌てて顔を起こすと、隣の吉乃が「もう」と苦笑を見せた後、「どうぞ」と優しく笑う。


「ありがとう」


 吉乃がしたように彼女の髪を下から支えて手のひらの上に乗せてみると、想像以上になめらかな手触りで、摩擦係数が無いかのように少し傾けるだけで手からさらさらと零れていく。

 何度か繰り返してみて吉乃の髪が見た目の美しさだけでなく、やはり手触りまでもが素晴らしいのだとわかる。


「どうですか?」

「凄い」


 響樹の反応でわかってはいたのだろう、楽しげに尋ねる吉乃に貧弱な語彙力で応じると、彼女はくすりと笑う。


「梳いてみてください」

「いいのか?」

「いいから言っているんですよ」


 仕方ないですねと言わんばかりの苦笑を見せた吉乃に頷き、響樹はゆっくりと彼女の髪の間に指を通す。

 先ほどと同じように何度も繰り返すが、一度としてひっかかる事は無い。さらさらでなめらかな髪の間を通る指は、手のひらよりも如実にそれを感じられる。


「少しくすぐったいですね」

「悪い」


 ふふっと笑いながらの吉乃の言葉に慌てて手を引き抜くと、優しく笑いながら首を振った彼女に手を掴まれた。


「違いますよ。髪の先の方ですから、くすぐったいのは気持ちの問題です」

「……どういう意味だ?」

「こういう意味です」


 赤くなった顔にニコリと笑みを浮かべ、またも響樹の手を誘う吉乃。だが、今回は先ほどよりももっと上、彼女の頭へ。


「わかりますか?」

「流石にな」

「では、お願いします」

「ああ」


 心拍の上昇をようやく自覚すると、吉乃の少し甘い香りをより強く感じられるような気がした。

 ゆっくりと、触れた場所から下へと手のひらを流すように撫でると、吉乃は僅かに首を竦ませる。


「今度は本当にくすぐったいです」

「やめるか?」

「響樹君はやめたいですか?」


 ほんの少しだけ首を傾げて小悪魔の笑みを浮かべる吉乃に、響樹は笑いながら首を振った。


「やめたくない」

「はい。私もやめてほしくありません」


 目を細めて柔らかく微笑んだ吉乃の濡羽色の髪の上、響樹はもう一度、二度三度とゆっくりと優しく手のひらを動かす。

 そのたびに吉乃はほんの少しだけ体をよじりながら照れた笑顔を見せる。それがなんとも堪らなかった。

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