第78話 去年の感謝を

 参拝の列に並んで進む途中、手水舎ちょうずやに差し掛かる。

 柄杓で水をすくって色々する場所という程度の認識だったので思わず出かかった水飲み場の言葉を飲み込み、「手洗い場」と口にした響樹に対して苦笑を見せた吉乃は、その後呼び名から身の清め方までを丁寧に、恋人から姉へと表情を変えながら楽しげに教えてくれた。


「流石に冷たいな」

「そうですね。でも、身が引き締まる気がしますよ?」


 日中とは言え冬場の屋外、両手を清めるために水をかけているのだから当然冷たい。今の今まで吉乃と繋いでいた手なのだから余計にそう感じるのかもしれない。

 吉乃も冷たさを感じてはいるのだろうが、そんな様子をおくびに出さずにやわらかな微笑みを浮かべているのは流石だ。


「まあそうだけど。吉乃さんは弛んでる時なんて無いだろ」

「響樹君の前ではだいぶ弛んでいますよ」

「そうか?」


 外行きとは違う顔を響樹にだけ見せてくれる事は知っているが、知る限り弛んでいるのは気持ちではなく頬だけだ。


「そうですよ?」


 優しく目を細めてそう口にしてふふっと笑い、吉乃は柄杓ですくった水を左手で受けて口元へと運んだ。流れるように綺麗な動作で、水の一滴さえも零さずに。

 周囲から音が消えたように錯覚するほどだったが、実際に見渡してみると吉乃が視線を集めていたので本当に言葉が減ったのかもしれない。


(晴れ着じゃなくて良かったな)


 先ほどとは真逆の事を思った理由は独占欲だろうか。

 吉乃を見慣れた響樹でさえも呼吸を忘れるほどに、ピンと背筋の伸びた彼女の所作は美しく、持ち上げた左手に唇をつける仕草には申し訳ない事に少し艶めかしさを感じてしまった。

 和装で、それに合わせて艶やかな濡羽色の髪を結った吉乃がこの仕草をしたのなら。そう考えると他人には見せたくないと思ってしまう。


 少し複雑な思いを胸に吉乃を眺めていると、左手で口元を隠した彼女が恨めしげな視線でこちらを見ている事に気付く。

 何だろうかと思っていると、吉乃は両手の人差し指を口元で交差させてバッテンを作る。その向うの頬は僅かに色付いていて、視線は僅かに潤んだ上目遣い。


「あ。悪い」


 この後の手順は水を吐き出す事。口元こそ隠していても当然そこを見られたくはないだろうと慌てて顔を逸らし、響樹も吉乃同様に口を濯いだ。

 その間、吉乃が仕返しとばかりに響樹をずっと見つめていた事は甘んじて受け入れざるを得なかった。



「響樹君は何をお願いするんですか?」


 賽銭箱の前――吉乃からは神前と教えられた――まであと少しのところで、吉乃が思い出したようにそう口にした。


「何も考えてなかったけど、とりあえず健康とか?」


 吉乃とずっと一緒になどという恥ずかしい嘘をついた方が良かったかと一瞬思ったが、それは自分で叶えるものだろうと考え直して正直なところを伝えた。


「それでよく初詣に来ようと思いましたね」

「まあ……」


 眉尻を下げて笑う吉乃だが、少し気まずくて顔を逸らした響樹の心中は察してくれたらしく、呆れではなくほんの少し嬉しそうな様子が窺える。

 今この場で考えるのは失礼かもしれないが神頼みなどをしようとは思わないので、響樹は吉乃と一緒の初詣の雰囲気を楽しみに来ていた。


「因みに吉乃さんは?」

「私も無病息災でしょうか。ただ、それよりも去年の感謝を中心に、ですね」

「……そうか」

「ええ」


 今度は響樹が吉乃の言葉の意味を察する番だが、彼女は少し頬を染めてはいるが堂々としたもので、逆に響樹の方が照れてしまう。


「まあ、俺も去年の感謝はしとくか。別に神道って訳でもないけど」

「私もそうですよ。いいんじゃないでしょうか、神様も感謝をされて悪い気はしないと思いますよ」

「そういうもんか」

「そういうもんですよ」

「じゃあ、自信を持って感謝しとくか」

「ええ」


 僅かに目を細めた吉乃が口元を抑えながらふふっと笑い、その後は賽銭の額や拝礼の手順などをまたも姉の顔で教えてくれた。


「ほんと良く知ってるよな。流石吉乃さん」

「ありがとうございます」


 素直な関心を伝えると、吉乃は姉の顔を崩して恋人の顔を覗かせながら「記憶力には自信がありますので」とはにかんだ。


「でも、大事なのは気持ちだと思います」

「まあそうかもしれないけど、気持ちがあるからこそちゃんとしたマナーを身に着けるんじゃないか? そういうのをしっかりしてるって事は、吉乃さんが相手の事を思って行動してるって事だろ。全然知らなかった俺が言うのもなんだけどな」


 吉乃の知識は本人に言わせれば記憶力の賜物なのだろうが、それを得ようとした理由はきっと彼女自身の心の中にあるのだと思う。


「八方美人なだけですよ」

「美人は美人だけどな」


 視線を逸らしてそう嘯いた吉乃に軽口で応じれば、彼女は「もうっ」とマフラーに口元を埋めた。


「でもまあ、たとえ八方美人なとこがあったとしても、吉乃さんが相手に対して、今回は神様だけど。失礼の無いように気を遣ってる事は間違いないだろ。立派な事だと思うよ、俺は。尊敬してる」


 響樹に色々と教えてくれた事もそうだ。おかげで響樹は神前で無礼を働く事も恐らく無く、人前で恥をかかずに済んでいる。


「そういうものでしょうか?」

「そういうものだろ」


 思ってもみなかった事を言われたように目を丸くした吉乃に軽い調子で笑いかける。


「響樹君は、私が嫌いだった私の事をたくさん肯定してくれますね」

「まあ俺は、吉乃さんの嫌いなとこ無いからな」

「またそういう事を。響樹君はっ」


 細い指でマフラーを摘まみ上げ、顔の半分ほどを更に隠してしまった吉乃がそこから僅かに潤んだ目元を覗かせている。

 可愛いなあと思いはしたが、手にかかる吉乃の握力が今回ばかりは可愛くない。この細い体のどこにそんな力があるのかと不思議なくらいだ。


「ちょっと痛いんだけど」

「痛くしていますから」


 くすりと笑った吉乃は先ほどとは逆にマフラーの位置を下げ、可愛らしい唇からふっと息を吐いてその細い手から力を抜いた。


「……もう今年の事ですから、今回ではありませんが。来年は神様に感謝をしなくてはいけない事がたくさん増えそうです」


 どこか楽しそうに、しかし何故か諦めも混じったように、ほんの少し眉尻を下げた吉乃が優しく笑った。


「俺もそうだろうなあ」


 吉乃と話をして今年は十五円――十分なご縁がありますようにとの意味らしい――と決めた賽銭の額だが、来年はもっと増やした方がいいだろうか。

 来年の事を考えると、ついそんな事まで思ってしまった。

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