第76話 これからが変えるこれまで
「改めて。あけましておめでとう、吉乃さん」
「はい。あけましておめでとうございます、響樹君」
一度だけ訪ねた事のある吉乃の部屋はその時と変わらず白を基調とした清潔感を保っており、かすかに甘い花の香りが漂っている。
吉乃本人のものと似てはいるが、こちらの方が少しだけ淡い事に気付いたのは、特にここ2日で彼女と近くで触れ合う事が増えたからなのだろう。
今日の吉乃はベージュの膝上丈のニットワンピースに黒い幅広のリボンベルトを巻いて、その下には黒いタイツ。黒い装いを好むほか、吉乃は腰位置にベルトを巻いている事が多い。それがまた位置の高い事と極めて細い事を示している。
そんな腰、以前よりも少し露出の多い脚、そして少し長めの袖から覗く白く細い指に視線を奪われて、慌てて顔を上げた。
少し気まずい響樹とは逆に、吉乃はニコリと笑い両腕を持ち上げて広げた。
手は半分ほど隠れてはいるが指先を綺麗に伸ばし、首を傾げながら「どうですか?」とはにかむ。玄関先なので吉乃の頭の方が上に来ているのが非常に残念なほどに――
「可愛い」
その言葉しか出て来なかったが、代わりに時間差無しの反応を見せた響樹に、吉乃は「ありがとうございます」と朱に染まった頬を緩めて笑う。
「さあどうぞ、上がってください」
「あ、ああ。ありがとう。お邪魔します」
靴を揃えて用意してもらったスリッパを履き、通してもらってリビングでソファーに腰を下ろす。
吉乃がお茶を用意してくれてはいるのだが、緊張と手持無沙汰でその様子をずっと眺めていると目が合った彼女が眉尻を下げて笑った後、「もう、響樹君は」と口元を動かしてはにかみ、ふいっと目を逸らしてしまった。
吉乃を見ないように意識して頑張っていると、すぐにやって来た彼女がそんな響樹を見てくすりと笑い、「どうぞ」とお茶を出してくれた。
「ありがとう」と応じた響樹に「どういたしまして」と微笑み吉乃も腰を下ろすのだが、隣ではあるがその距離はクリスマスの時よりも遠い。
「そんなに残念そうな顔をしなくても、お茶を飲み終えたらもっと近くに行きますよ?」
「……そうか」
そんなところまで顔に出ていたかと気まずくて湯呑に口をつけた響樹にくすりと笑い、「ええ」と吉乃も湯呑を口元へと運んだ。
「美味い」
「それは良かったです」
優しく笑う吉乃の横で、一気に飲み干してしまいたい気持ちを抑えるのに苦労した。
◇
「初詣は昼の後でいいんだっけ?」
「ええ。少し歩いた所に神社がありますので、食後の散歩としても悪くないと思いますよ」
「神社、だけじゃなくてよく考えると俺この辺の事全然知らないな」
「響樹君は引っ越してまだ3ヶ月ですからね」
そう言って吉乃がふふっと笑うと、触れ合った彼女の左肩からその僅かな揺れが伝わる。
「私はもうじき4年になりますから、周囲の事にも詳しくなりますよ」
懐かしむような調子の中には、ほんの少しだけ寂しさが滲んでいた。その4年間のほとんどを、彼女は孤独に過ごした。今はもうそんな事が無いとは言え、思い出せば寂寥感を覚えるのも当然だろう。
響樹は吉乃が自身の腿の上に置いた手を取って握り、ゆっくりと二人の間に下ろした。
「響樹君……」
少し丸くなった目の吉乃と顔を合わせると、彼女は響樹の手を握り返して「ありがとうございます」とはにかんだ。
「この辺詳しいんだろ? これから時間はあるだろうし、一緒に歩いて、俺に色々教えてほしい」
「響樹君は私とそういう…………デートがしたい訳ですね」
「デッ……いや、そういう……なんて言うかあれだ……」
顔を合わせていたのが良くなかった。吉乃の端正な顔が赤く染まり、熱と潤みを帯びた上目遣い、そしてその言葉と同時に握った手に少し込められた力。その全てが一瞬で響樹の脳内温度を上げる。
「したくないんですか?」
「……したいです。そういうのに限らず」
わざとらしいのはわかっていても寂しそうな顔を作った吉乃に覗き込まれてしまっては、響樹がノーの言葉を発する事はあり得ない。
そして予想通り「はい」と、吉乃は朱に染まった顔に満足げな笑みを浮かべた。
「こうやって考えると、私の4年間も無駄ではありませんでした。いえ、元々無駄ではなかったんですね。だって、あの期間が無ければ恐らく響樹君とは接点が無いままだったでしょうから」
当然まだ複雑な思いは消えていないのだろう、吉乃はどこか曖昧な笑みを浮かべている。
「そうかもな。俺の恋愛嫌いもそんな感じか」
響樹もそうだ。両親の事を考えるとまだ少し憂鬱になる。ただそれでも、恋愛嫌いという言葉をあっさり口に出す事ができたのは著しい心境の変化だろう。
吉乃と付き合えた事だけでなく、彼女と過ごせた時間そのものが、過去への見方や考え方を変えてくれた。全てを肯定する事は無理でも、あの過去が無ければ吉乃と今こうしていられないと考えると、嫌ってばかりはいられない。
吉乃は一瞬だけ少し驚いたような顔を見せたが、すぐに優しい微笑みを浮かべて「そうですね」と口を開いた。
「響樹君が恋愛嫌いでなければ、きっと恋人を作っていたでしょうから」
どこか寂しそうにそう口にした後、吉乃は口を尖らせて「私以外のっ」と手にぎゅっと力を込めた。
とは言っても痛みはほとんどなくむしろ気持ちいいくらい。それでも吉乃がじゃれ合いを求めているのだろう事はわかるので、乗らせてもらう。
「なんで俺は怒られてるんだ?」
「響樹君が浮気をしたので」
「してないだろ!」
乗らせてもらったのだが、いきなり看過できない発言が飛んできて面食らう。
言った本人である吉乃はくすりと笑い、「ごめんなさい」と手の力を緩めた。
「でも」
響樹の方を向いていた顔を正面に向け、吉乃がそうぽつりと呟くような声を出したのに少し遅れ、響樹の右肩に心地のいい重みがかかる。
そして同時に吉乃の香りをより強く感じた。
「周囲の人たちが響樹君の魅力に気付いてとられてしまう前に会えて、本当に良かったです」
「そういう変わり者は吉乃さんくらいだと思うけどな」
成績優秀者としてその将来に価値を見出す者くらいはいるかもしれないが。
「響樹君は、そうやって自分の魅力に無自覚なのは良くないです」
「そう言われてもな」
吉乃は響樹をカッコいいと言ってくれるのでもちろん嬉しいが、それは恐らく好意によるバイアスがかかっている。
一応外見は悪くはないと思っているし、成績も現段階では県下トップレベルに入るかくらいには優秀。運動も非運動部としては十分で、家事能力も同年代の男と比べれば間違いなく高い。
(あれ? 俺、意外と良物件か?)
と、一瞬調子に乗りかけるものの、響樹の肩でそのやわらかな頬の形を少し変えた吉乃の恨めしげな上目遣いで我に返る。
「いや。まだ全然足りないな。吉乃さんの魅力にまるで追い付けてないし」
そう。響樹の目標はあくまで吉乃。彼女の隣で、対等な立場で胸を張る事。
恋人になれた今でもそれは変わらない。好きだから、特別だから隣にいたいし、いると決めた。しかしそこに相応しい自分でいる事は絶対に譲らない。
「そういう事だから、楽しみにしててくれ」
「……もう、響樹君は」
僅かに丸くした目を細め、眉尻をほんの少しだけ下げ、吉乃は優しく微笑んで「でも」と言葉を足した。
「その魅力は私にだけ、というのは無理でしょうけど、私に一番初めに、一番しっかりと見せてください」
「ああ、もちろん」
優しく静かに、囁くように「約束ですよ」と声に出した吉乃は、響樹の手をぎゅっと握り、頭だけでなく体全体を預けるように身を委ねてくれた。
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