第75話 恋人との年越し
吉乃と手を繋いで歩く間、会話はやはり少なかった。そしてそのほとんどがこれからの予定といったある意味事務的な事柄なのだが、先の事を一つ決める毎に吉乃はその整った顔に喜色を滲ませる。
予定を一つ立てるだけ、一緒にする事を一つ決めるだけ。今までだって無かった訳ではないのに、ただそれだけで一つ一つに喜びを感じたのは吉乃だけではない。
「響樹君。今晩、どのくらいまで起きていますか?」
「考えてなかったけど、まあ日が、と言うか年が変わるくらいまでは起きてると思う」
「それでしたら、その時間に電話をしても構いませんか?」
上目遣いで首を傾げる様子は可愛らしいのだが、繋いだ手の強張りに吉乃のわずかな緊張を感じた。
「当たり前だろ。ほんとは一緒に年越ししたいくらいだったし」
お互いに一人暮らしなのでしようと思えばできない事も無いのだが、0時過ぎまで吉乃を部屋にいさせる事も、逆に吉乃の部屋にお邪魔する事も、流石にまだまだ早い。
だから吉乃の提案は本当にありがたく、響樹は力強く頷いた。
「良かったです。響樹君と恋人として過ごす1年ですから、やはり最初に響樹君の声を聞きたかったので」
「そうだな。今年最後を吉乃さんと締めくくって、新年最初も一緒だ」
「はいっ」
顔を綻ばせて頷く吉乃に笑みを返し、「ほっとくと花村さん辺りに一番取られそうだからな」と苦笑すると、「考え過ぎですよ」と彼女の方も苦笑を見せた。
そして相変わらず会話は少なめのまま歩き、それでも繋いだ手の温かさと時折視線を絡めて気恥ずかしい思いをしながら幸せな散歩を楽しんだ。
しかし楽しい時間はすぐに終わるという言葉の通り、思っていたよりも早く吉乃の自宅前に着いてしまう。
「……それじゃあ」
「……はい」
手の力を抜くべきなのにそれができない。それは吉乃の方も同じようで、二人して顔を見合わせて笑った。
「吉乃さんに風邪ひかせても悪いしな」
自分から手を離す口実が欲しくかった事もあるがもしもの事があっては後悔してもしきれないと口にした言葉なのだが、吉乃はそれを聞いていたずらっぽい笑みを浮かべる。
しかしその小悪魔の笑みは朱に染まった顔の上。
「昨日はだいぶ長くここにいたと記憶していますけど?」
そう言われてしまうと言葉が出ない。
想起される記憶で顔を覆いたくなる響樹に、吉乃はくすりと笑った。
「大丈夫です。先に手を離したからといって愛情が無いとは思いませんので」
いまだ吉乃は小悪魔のまま、「だから、響樹君から」と首を傾げてしなを作る。
「その理屈なら吉乃さんからでもいいだろ?」
「私は離したくありませんので」
「俺だってそうだよ」
「困りましたね」
まるで困っていないであろう吉乃はいつの間にか優しい微笑みを湛えている。
「だから、部屋まで送る。もう少し一緒にいさせてくれ」
「はい。お言葉に甘えさせていただきます。ありがとうございます、響樹君」
一瞬目を丸くした吉乃だが、すぐに嬉しそうに笑って握った手に力を込めた。
そうして歩き出しながら、吉乃の部屋の前で同じようなやり取りをするはめになるのだろうなと予想していた響樹だったが、その予想は見事に当たった。
◇
風呂に入り諸々の支度を済ませたあと少しで年が変わる頃、ずっと手に持って眺めていたスマホが震えた。
表示された名前は「烏丸さん」となっており、後で必ず変えておこうと決意しながら指を滑らせ――
「はい……天羽です」
『こんばんは、響樹君。吉乃です』
恋人になった吉乃相手に最初の一声はどうしたものかと思ったものの、結局普段と同じ。
吉乃はそんな響樹の内心を見抜いたようにくすりと笑い、自分の名前を名乗る。
「ああ、こんばんは、吉乃さん」
つい数時間前の別れたばかりだというのに、ずっと待っていた吉乃の透き通るような声。
通話に応じる時にあった鼓動の高鳴りは気付けば落ち着いていた。
『響樹君とこうやって電話で話す事はほとんどありませんでしたね』
「まあな。必要な事はほとんどメッセージで事足りたし」
『そうですね。でもこれからは……』
「ああ。こうやって時々は話したいな」
『はい』
きっと電話の向こうの吉乃は今、嬉しそうにやわらかい笑みを浮かべているだろう。顔が見えなくても、声音で彼女の様子がなんとなく窺えた。
『響樹君、今きっと優しい顔をしていますね』
「わかるのか?」
『何となくですけど、でもきっとそうだと思います』
「流石だな」
自分がそんな顔をしているかはわからないが、吉乃が言うのならきっと先ほどまではそうだったのだろうという確信がある。
しかし今はきっと、吉乃が自分の事をわかってくれた喜びでだらしのない顔をしているはずだ。とても見せられない。
『響樹君の事なら何でも、と言いたいところですけど、残念ながらそれにはまだまだ早いですね』
『残念ながら』と口にしつつも、吉乃の声は弾んでいる。これからもっと響樹の事を知っていくという宣言のようだと思った。
「実際まだ話すようになって3ヶ月も経ってないんだよな」
『そう、ですね。響樹君と出会った日がつい昨日のように思えるのに、一緒に過ごした時間もかけてもらった言葉もしてもらった事も、本当にたくさんあります』
「俺ももっと記憶力が良ければな。そうすればもっと鮮明に吉乃さんとの思い出を記憶しとけるんだけど」
『私が全部覚えておきますから、逐一響樹君に教えてあげます。響樹君が私にどんな気障な言葉を言ってくれたかも、全部』
「それはやめてくれ」
『どうしましょうか?』
電話の向こうで吉乃が楽しげにふふっと笑い、『でも』と優しい口調で言葉を続ける。
『覚えておくだけではなくて、一緒に写真をたくさん撮りませんか? 記憶の中だけではなく、響樹君との思い出を形にも残したいです』
「……ああ」
響樹は、吉乃もきっとそうだが、そういった形に残る思い出が人よりも少ない。しかし、その分をこれから取り戻すと言うと少し違うのだと思う。
吉乃との思い出をたくさん残していける事は考えるだけで楽しく幸せになる。
「一緒にたくさん写真撮ろう」
『はい。約束ですよ?』
「ああ」
またも声を弾ませた吉乃に見えもしないのに頷くと、電話の向こうから何かの電子音が聞こえた。
「タイマーか?」
『はい。あと1分で0時です』
「そうか。じゃあ年内最後の挨拶を済ませないとな」
『そうですね。そのための電話でしたから』
電話の向こうで聞こえたくすりと笑う吉乃の声を少し遠ざけて息を吸い、口を開く。
「吉乃さん。今年はありがとう。本当に色々世話になったし、付き合える事になって凄く嬉しい。来年もよろしく」
もう一度、今度は深く頭を下げると、『台詞を取られてしまいましたね』とまたもくすりと笑う声。
そしてその次には優しく静かな、落ち着きと高揚の両方を与えてくれる『響樹君』の声。
『私の方こそ、響樹君に会えなければきっと、毎日笑って過ごせなかったと思います。だから本当にありがとうございます。来年も、その先も、よろしくお願いします』
「ああ」
電話の向こうは当然見えないのに、吉乃が響樹よりも深く頭を下げる様子がありありと脳裏に浮かんだ。きっと間違いはない。
『あと15秒です…………10秒』
どこか楽しそうにカウントダウンをする吉乃に合わせ、響樹も「9、8、7」と数字を口にする。
新年のカウントダウンなど、どこでも行われている行為だろう。しかしそれを吉乃と行うだけで、ただのカウントダウンがこんなにも楽しい。
吉乃もきっとそう思ってくれているのだろう、『5、4、3』と数字を刻む声が少しずつ大きくなっていった。
そして二人で同時に「0」まで数え――
「あけましておめでとう、吉乃さん。今年もよろしく」
『あけましておめでとうございます、響樹君。今年もよろしくお願いします』
タイミングがぴったり重なったが、吉乃の声はしっかりと聞き取れた。
今年はきっと去年よりいい年になる。そう確信した瞬間だった。
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