第74話 恋人としての第一歩
「大掃除はどうでしたか?」
「まだ越して来て3ヶ月だからな。そんなに汚れてなかったし、台所周りは吉乃さんがかなり綺麗にしてくれてただろ? そのおかげでだいぶ早く終わったな。ありがとう」
試験後の響樹が吉乃の世話になりっぱなしだった頃、彼女は使ったキッチンを元よりもはるかに綺麗な状態にして帰っていった。
別に響樹も――試験期間中こそ埃を積もらせてはいたが――それほど汚していた訳ではないと思っていたのだが、吉乃が本当に細かいところまで手を入れてくれた事を今日改めて思い知り、彼女には感謝しかない。
「どういたしまして」
頭を下げた響樹に、吉乃はやわらかな笑みを浮かべながら会釈を見せ、綺麗な濡羽色の髪を揺らした。
そんな吉乃は当初のような目に見える様子こそ無くなったものの、まだどこか緊張をしているように見えた。
そしてそれは響樹も同じで、二人の間では当たり障りの無い会話が交わされる。
大掃除に始まり勉強の事、更には普段滅多にしない天気の話まで。
夕食として年越蕎麦を食べる間もそれは変わらず、いつもの様に軽口を叩き合う事も無い。
少しのぎこちなさこそ感じるものの、余所余所しさや居心地の悪さなどは無く、吉乃といられる嬉しさと幸せなもどかしさが募る。
(最初はこんなもんなんだろうな)
もちろん最初からべったりな恋人たちも多いのだろうが、響樹と吉乃に関しては昨日がむしろ異常だったと言えるので、今はその反動な気がしている。
いずれは昨日のように抱きしめ合った上で甘い言葉を囁くような日が来るのかもしれないが、今の自分からは到底想像ができない。そういった言葉をかけたなら、吉乃はきっともう想像も及ばないほどに可愛らしい姿を見せてくれるだろう。そんなあるかもわからない未来を考えるだけで少し頭が茹る。
だから、牛歩が過ぎて吉乃に愛想を尽かされる事だけは避けたいが、一歩ずつ二人で進んで行けるのだと思うとそれも悪くない。
吉乃が響樹にだけ見せてくれる姿をもっと見たいと思うし、逆もまた然りだ。あまりだらしない顔をさらす訳にはいかないが。
「どうかしましたか?」
きっと自然に笑みがこぼれていたのだろう、優しい微笑みを湛えた吉乃がテーブルの向こうでほんの少し首を傾げた。
「ん? 吉乃さんの事考えてた」
「……またそうやって、響樹君は」
ほんの少しだけ紅潮した頬を膨らませ、吉乃が視線を逸らす。
そんなふうに恥じらいを見せる吉乃が大変に可愛らしく、一歩ずつなどと思ったくせにいきなり中々恥ずかし発言をした自覚がふつふつと湧き上がった。
◇
「じゃあそろそろ送ってく」
「……はい、ありがとうございます」
夕食の片付けを終えた後も取り留めの無い会話を交わし、流石にそろそろという時間にもなったので断腸の思いで口にした言葉。それに対し吉乃は感謝を告げて頭を下げながらも寂しそうな表情を覗かせた。
本当はさせたくない顔ではあるのだが、申し訳ない事に今はそれが嬉しい。自分と同じで、吉乃も別れ難いと思ってくれている事が伝わってくる。
「響樹君は……しょうがない人ですね。寂しがっている、か、彼女を見て笑うなんて」
そんな響樹を見て察したのだろう、吉乃が口を尖らせ眉尻を下げて呆れたように見せながらも、優しく笑った。
響樹をよく理解してくれていることが嬉しく、それから相変わらず「彼女」という発言に恥じらいを覗かせる姿が可愛く、余計に頬が弛む。
「その彼女が可愛いから、つい」
吉乃のコートのかかったハンガーを渡そうとすると、「またそうやって」と頬を膨らませながらも両手を差し出して左手をハンガーに、そして右手を響樹の手に重ねた。
「ありがとうございます、響樹君」
少しだけ朱に染まった顔にやわらかな微笑みを浮かべてハンガーを受け取り、固まった響樹に吉乃はいたずらっぽい笑みを向けて「響樹君の方が可愛いですね」と手を離した。
そのままコートを羽織ってマフラーを巻く吉乃は、はにかみながらも響樹から視線を外さない。
(俺の方が可愛いとか絶対に無い)
そんなことを確信しながら響樹も吉乃から視線を外さずにコートを纏うと、ゆっくりと距離を詰めた彼女が黒いマフラーを手に取る。
「自分で巻けるけど?」
「私でも巻けます」
つまりそういう事なのだろうと照れ隠しを口にした響樹に対し、吉乃は譲るつもりが無い事を示してニコリと圧をかけた。
響樹の沈黙を肯定と受け取った吉乃は、頬を先ほどよりも赤くしながらも踵を上げてゆっくりと響樹の首の後ろにマフラーを運ぶ。
昨日の朝は別の事をされるかと恥ずかしい勘違いをしたものだが、今は違う。あの時感じたくすぐったさは微塵も無い。
ほのかな甘い香りとすぐそこにある吉乃のスラリと細い体。思い出すのは昨夜の事で、鼓動が高鳴り思わずもう一度彼女の背中に腕を回しかけたほどだ。
「はい、できました」
またも結び目をキュッと引っ張り、楽しそうに笑った吉乃が響樹から離れていく。
「やっぱり、顔が真っ赤ですよ?」
「吉乃さんもな」
響樹同様に自覚は重々あったのだろう、吉乃がふふっと笑ってから「名残惜しいですけど」と上目遣いで響樹を見つめた。
「ああ。でも、明日も会える」
「はい。楽しみですね」
「ああ」
一緒に過ごす時間はまだぎこちなさこそ残るものの幸せで、その反面別れの瞬間を寂しく思うのは仕方の無い事。しかし次に会える時を楽しみにする事も、会えない時間でも吉乃に思いを馳せる事も、恋人になった響樹は誰に憚る必要も無い。
そんなふうに少し恥ずかしい事を考えながら、やわらかな微笑みを浮かべる吉乃に笑みを返して歩き、玄関を開けた。
「寒くないか?」
「大丈夫です。響樹君は?」
「俺も大丈夫。じゃあ行くか」
「はい」
玄関の鍵を締めて歩き出すと、響樹の部屋は二階なのですぐに下への階段に差し掛かる。
ちらりと足元を窺ってみると吉乃は今日も少し踵が高く、好都合である。
「あー。階段、ヒールだと危ないし、手」
差し出した右手と階段を見比べた後、顔を響樹に向けてぱちくりとまばたきを一度。そうして吉乃は「はい」と目を細めて優しく笑い、手袋を外してコートのポケットにしまう。
手袋をしてくれていた方が響樹の平常心としては助かったのだが、覚悟を決めてから吉乃が伸ばしてくれた手を取り、できる限り優しく握った。
「やっぱ
「響樹君の手もですよ」
むず痒さと照れくささの中で吉乃を見つめると、彼女は響樹の手を少し強めに握り返し、「行きましょう?」とはにかみを見せる。
響樹は言葉ではなく首肯で返し、吉乃に合わせてゆっくりと一歩目を踏み出し、安全のためと言い訳をしながら時間をかけて階段を下った。
今まで何度か触れた彼女の細い手指。力を入れたら壊れてしまいそうなくらいに繊細に見えるくせに、それでいてやわらかで温かで、しっかりと吉乃の体温と存在を感じられる。
先ほども手に触れたし昨日に至っては指まで絡めた。しかしこうやってちゃんと――建前こそ用意したものの――手を繋ぐ事は初めてだ。
体の密着面はだいぶ小さいものの、半ば告白の勢いで交わした抱擁よりも、吉乃と恋人になったのだという実感を強く強く覚える。
「階段、終わってしまいましたね」
「ああ」
前を向いたままぽつりと呟くように口にした吉乃に、響樹も前を向いたままで頷いた。
二人の間に沈黙が生まれるが、気まずさなどは一切無い。
きっと吉乃も同じ気持ちでいてくれるという根拠の無い自信があった。だから顔を横に向けると、本当にちょうど彼女がそうしたのとタイミングが合う。
別にだからどうしたという話なのだろうが、ただただそれだけが嬉しくて頬が弛んだ。そしてそれは吉乃も同じだったようで、赤く染めた頬を綻ばせていた。
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