三章

第73話 恋人2日目

 晴れて吉乃と恋人になった翌日だというのに、響樹は吉乃と会えずにいた。

 理由としては単純で、年末行事の一つ、所謂大掃除である。


 響樹は普段から掃除を怠ってはいないし、引っ越し3ヶ月という事もあってそこまで部屋は汚れていない。しかしやはり年末という事で普段手の回らない所も徹底的に行おうというつもりでいた。

 対して吉乃は期末試験後に部屋の模様替えを行った際に少し早い大掃除を済ませてしまったとの事である。


「吉乃さんはそもそも普段から手の回らないとこ無さそうだもんな」

「月に一度くらいは少し手間をかけて掃除をしますからね。もちろん十二月は年末という事で普段より時間をかけましたけど」

「流石吉乃さん」

「ありがとうございます」


 前日の別れ際にそんな会話をした。吉乃が言うに普段からある程度手間をかけておく方が結果的に時間はかからないそうだ。

 来月からは見習おうと決意はするものの、だからと言って目の前の大掃除をサボれる訳でもなく、恋人になって二日目だと言うのに吉乃に会えていない。


「お手伝いしましょうか?」

「いや……気持ちだけ貰っとく」


 首を傾げた吉乃のやわらかな笑みが少し妖しい様子に変わったのをよく覚えている。


「見られたら困る物もあるでしょうから、仕方ありませんね」

「ねーよそんなもん」


 吉乃が恋人になったばかりの響樹と一緒にいたがっている事はわかる。当然響樹もである。一緒に部屋の掃除をして、昼食をとって、恐らく夕食まで。響樹としても本心ではそうしたい。

 しかしである、恋人になって初めて一緒にする事が自分の部屋の掃除というのは流石に情けなかった。言ってしまえば見栄と意地である。


「わかりました。でも、夕食は一緒にとりましょう」


 そんな響樹の内心などお見通しだったのだろう、吉乃がニコリと笑いながら提案をしてくれる。


「ああ。夕方前には終わらせる」

「ではその頃にお邪魔しますね」


 恋人になった吉乃を初めて迎えるのだからと、より大掃除に気合が入った。

 そのおかげもあって大掃除は想定していたよりもだいぶ早く終わり、あとは吉乃を待つのみとなった。

 そしてそうなると途端に落ち着かなくなる。


「この後吉乃さん来るんだよな……」


 昨日から今まで、高揚感に支配されていた脳が冷静になった瞬間である。

 こうなってしまうともう止まらない。昨日の自分の言動と吉乃の可愛さが一気に蘇り、のたうち回りたい気持ちにしかならない。

 もちろんせっかく掃除した部屋を散らかすような真似はできず、響樹は行き場の無いもどかしさを抱え続けた。



 内容が頭に入って来ない教科書を悶々としたまま眺め続けていると、玄関のチャイムが鳴らされた。こんな日のこんな時間、相手が一人しかいない事はわかっている。

 跳ねるように立ち上がって走り、逸る気持ちを抑えてゆっくりとドアを開くと当然ながら吉乃がいる。


「こ、こんにちは」

「あ、ああ。いらっしゃい」


 白いコートに黒い服、いつも通りの吉乃。しかしいつもならば開けたドアの先にいるのはニコリと笑った吉乃なのに、今日は少し様子が違う。

 マフラーの中に口元を埋め、覗く頬は僅かに赤い。外が寒かったのかと思ったが、響樹にちらちらと上目遣いの視線を送る吉乃はどこか落ち着かない。


「とりあえず上がってくれ」

「はい。お、お邪魔します」


 玄関のドアを押さえる響樹の横で一度深呼吸をした吉乃が、「お邪魔します」ともう一度口にしてゆっくりと部屋に入る。


(こうまで緊張した吉乃さんは初めて見るな)


 普段は行動の端々に品の良さを滲ませる吉乃だが、今日はどこか小動物的な落ち着きの無さを感じる。

 靴を脱いで部屋に上がってからもそうで、やたらと響樹の視線を気にしていた。コートを脱いでマフラーと一緒にハンガーにかける際も、テーブルを挟んで響樹の向かいに座る際も。

 ちらちらと目線をくれる吉乃だが、響樹と視線が合うと目を伏せてしまう。


(可愛い)


 響樹としては自分よりも緊張している吉乃を見る事で多少落ち着きを取り戻しはしたのだがそれも僅かの間の事、普段と違う彼女の姿に顔が熱くなる。

 きっと吉乃も、昨日から今日にかけて我に返った瞬間に恥ずかしくなったのだろうと思うと、そんな彼女が余計に可愛く見えてもうどうしようもない。


 今まで何度も吉乃はこの部屋を訪れている。しかし、響樹からすれば恋人になった吉乃が来てくれるのは初めてのことで、吉乃からすれば恋人になった響樹を訪ねるのは当然初めて。

 言葉を交わせない中、時折交わる視線にもどかしさを覚え続けるのは響樹だけではないだろう。

関係性が変わった事を自覚すると、今まで普通だった事さえも強く意識してしまう。

 

 更に言えば、昨日は思いを告げてその勢いで抱擁まで交わした。目の前にいる美しい顔を朱に染めた少女。その華奢な肩も、テーブルで今は見えない細い腰も、その時は自分の腕の中にあった。

 今は遠くてわからないほのかに甘い花の香りも、吉乃の息遣いさえも、昨日は感じられた。


(昨日はよくあんな事できたよな、俺)


 更に熱くなった頭をテーブルに打ちつけたい気持ちを堪えて吉乃を見ると、ちょうど彼女もこちらを向いたところ。少し困ったようにはにかむその仕草が堪らない。

 しかし、流石に困らせてばかりはいられない。家主であり彼氏である響樹が一歩踏み出すべきなのだ。

 と思ったのだが、自分自身で考えた「彼氏」の言葉で精神的に自傷してしまい――


「吉乃さん」


 続く言葉を何も考えないままに、思わずその名前が口を衝く。


「はいっ」


 緊張のせいなのか一瞬体を震わせた吉乃が跳ねるように姿勢を正し、まっすぐに響樹を見つめる。

 朱に染まった顔を少し引き締め、僅かに潤んだ瞳を逸らさずまっすぐに。


「ええと……今日の吉乃さんも可愛いと、思います。凄く」

「あ、ありがとう、ございます」


 またもテーブルに頭を打ちつけたい気分である。

 恋人を褒める事は良い事だと思うのだが、それは今ではない。ドアを開けて吉乃を部屋に招き入れたところで、もっとスマートに行うべきだったと思う。


 あまりの情けなさに顔を伏せた響樹の耳に、吉乃がくすりと笑う声が聞こえた。

 嘲笑などではけっしてなく、どこか楽しそうな様子がわかる。


「響樹君も、とても格好良く見えます」

「え」

「元々響樹君は格好いいと思っていましたけど、か、彼氏になってくれた響樹君は、もっと」

「彼氏……」


 視線を上げてみると、顔を真っ赤に染めた吉乃がニコリと笑っていた。


「恥ずかしいので反芻しないでください」

「わる……くない。俺は吉乃さんの彼氏だし、吉乃さんは俺の彼女だ」


 口にしてみると更に顔の温度が上がるような気がした。火が出そうとはこういう事なのだろうと、ふと思う。


「もう……響樹君は」


 羞恥故か視線を逸らして頬を膨らませた吉乃が、その後でふっと息を吐き、「仕方ありませんね。響樹君ですから」と優しく笑った。

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