第72話 恋人にだけ見せる顔

(また俺は同じ過ちを……)


 試験結果が出た後に吉乃を抱きしめた時と状況は似ている。しっかりとした思慮があった訳ではなく、ただこうして彼女を抱きしめたいという願望に従ったという点で。

 結果、この上なく幸せなのだがたまらなく恥ずかしい。


 互いにコートを身に着けているので絡めたままの手と指以外から熱は伝わらない。そのはずなのに、腕の中にいる吉乃の存在そのものが温かい。

 少し甘い花の香りと冬の厚着越しでさえやわらかな体が、時折「響樹君」と透き通るような声音で呼ばれる自身の名前が、愛おしい吉乃を抱きしめているのだという実感をこれでもかと与える。

 だから本来は過ちなどではなく、抱擁を交わすという大切な行為。


 問題は響樹の精神の方。

 吉乃と抱きしめ合う事が自分の理性をどれだけ削る行為であるかは前回の時で重々承知のはずだった。しかも今回は恋人という関係性の上でなのだから、余計にだ。


 更にここは吉乃のマンションの真ん前で、幸いに誰も通っていないが今後もそうとは限らない。

 自分がそんな事さえ考え付かないほどに心底吉乃への熱に浮かされているのだと気付き、またも顔が熱くなる。


「そろそろ、終わりにしとこう。寒いし」


 寒さなど今の今まですっかり忘れていたくせに、それ以外の口実が見つからなかった。本当は終わりになどしたくないのだから仕方の無い事だ。

 こうやって吉乃を抱きしめられるのはいつになるだろうか。想いを伝え合い、その余勢を駆って高揚のままに抱きしめた今回。次は言える自信が無い。


「私はこうしていると温かいですけど、響樹君は違うんですね」


 響樹の胸元に埋めていた顔を上げ、吉乃は上目遣いの視線を送った後で寂しそうな様子を見せながら目を伏せる。

 もちろんこれが吉乃の演技である事は響樹にはお見通しであるが、彼女が本心からもっとこうしている事を望んでいるのも同時にわかった。


「俺だってほんとはもっとこうしてたいんだぞ」


 耳元でそう伝えると吉乃がこくりと頷くので、絡めた手を解いて両腕で今までよりも強く抱きしめて10秒数えた。「響樹君?」と最初は体を固くした彼女も、8秒のあたりからはこちらを強く抱きしめてくれた。

 強い抱擁を交わしたのはたったの2秒ほど。そうして名残惜しさに体を引き裂かれそうになるのを抑え、吉乃の両肩に触れてそっと押し戻す。


「ちょっと心臓に悪いんで今日はこの辺で勘弁してくれ」

「……仕方ありませんね」


 一瞬目を丸くした吉乃はくすりと笑い、次に優しい微笑みを浮かべながらほんの少し眉尻を下げた。


「でも、『今日は』という事は、次もあると考えても?」


 そして今度は僅かに首を傾げた少しいたずらっぽい笑み。まだ朱に染まったままの端正な顔に、様々な表情を浮かべて見せてくれる。


「鋭意努力します」

「努力しなければできないような事なんですね」


 今度は頬を膨らませる。

 今はまだ、こんな風な吉乃を見られるのは響樹だけの特権だ。それがまた高揚を呼ぶ。


「吉乃さんが凄い可愛いのが悪い。ちょっと抱きしめるだけで精神力も体力も目茶苦茶使うんだぞ」

「……そうやってまた響樹君は」


 尖らせた唇をマフラーの向こうに隠し、吉乃は視線を逸らす。


「そういうとこだぞ。容姿を褒める可愛いはたくさん言われてるだろうし俺もそう思うけど、吉乃さんが俺に見せてくれるちょっとした仕草とか表情とか、そういうのすげー可愛らしいと思う。正直ほんと堪んない」


 この上なく整った容姿ももちろん好きではあるが、中身が吉乃でなければただ綺麗なだけ。彼女の事を可愛いと思うのは、やはり内面から来るものが主因だ。

 吉乃の全てが好ましい響樹にとって、内外の相乗効果は破壊力が大き過ぎる。


「響樹君はっ……響樹君は……もうっ!」


 目を大きく見開いて口をぱくぱくとさせた後、真っ赤になった吉乃はそのまま響樹に背中を向けた。華奢な肩の震えはコート越しでもわかる。


「大体! 響樹君は自分がどれだけ格好いいか無自覚なんです。そうやって自然に何でもない事のように気障な事を言いますし、力強くて優しい目に見つめられると本当にドキドキしますし、行動で示すところも……本当に。だから響樹君だって心臓に悪いんですからね」

「あー……。その、ありがとう」

「どういたしましてっ」


 かっこいいなどと言われ慣れていない事も要因ではあるが、やはり自分の好きな相手からそう言ってもらえる事は格別の喜びなのだろう。

 吉乃が向こうを向いていて本当に良かったと、頬を押さえながら思った。それなのに、まだ弛んだ頬を押さえている響樹を、吉乃がちらりと振り返る、


「私の気持ち、わかりましたか?」

「できれば見ないでくれ」


 ふふっと笑いながら振り返った吉乃の視界を塞ぐように手を広げたのだが、彼女はそんな響樹の手に自身の手を絡めて下ろし、ずいっと顔を近付ける。

 元の色が透き通るように白い事など忘れてしまうくらいに、吉乃の顔は染まっていた。


「そうやって照れている響樹君は可愛いです。響樹君は普段から格好いいのでそちらは仕方ありませんけど、今のような顔は私以外の人には見せないでください」

「……他の奴には見せられないって。吉乃さんも、今みたいな顔は俺の前だけにしてくれ」

「はい。恋人の、大好きな響樹君にだけ見せる顔です」


 優しい微笑みを湛え、吉乃がしっかりと頷いた。


「ああ。改めてだけど、俺は吉乃さんが好きだ。今日から恋人としてよろしく」

「はい。末永く、よろしくお願いします」


 結局、響樹は胸に飛び込んできた吉乃ともう一度抱擁を交わし、しばらくしてまた少し冷静になった頃に辛い思いをした。

 しかしやはり、それ以上に幸せで仕方が無く、止め時には苦労するハメになった。

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