第71話 満ちて足りた現在と今後の話

「好きだ」「愛している」。愛を囁くそんな言葉が嫌いだった。

 原因は恋愛そのものに対する嫌悪と同じところ。その言葉を両親に何度も何度も何度も聞かされてきたから。朝食の最中だけで多ければ十回以上、そんな生活がずっと続いていて、考える事さえ嫌いになった言葉。


 それなのに、目の前にいる彼女に伝えるべき言葉はそれしか思い浮かばなかった。


 それなのに、目の前にいる彼女から告げられたその言葉が何よりも温かい。


「響樹君」


 別れの挨拶のために少し離れていた吉乃がゆっくりと距離を詰める。

 端正な顔には先ほどまで綺麗な優しい微笑みが浮かんでいたのに、今では可愛らしい。普段冷たく見えてしまうほどに白い頬は温かな朱に染まり、そのやわらかさが伝わるくらいには弛んでいる。


「響樹君」

「吉乃さん」


 手を伸ばせば届く距離から更にもう一歩、並んで歩く時よりも少し近い距離。吉乃はそこで立ち止まり、「響樹君」ともう一度名前を呼んだ。

 ヒールがある分ほんの少しだけの上目遣いで、小首を傾げて。


「もう一度、聞かせてください」

「好きだ、吉乃さん」

「私も好きです、響樹君」


 何の抵抗もなく口から出るその二文字。伝えるだけで、伝えてもらうだけで、不思議な感覚が胸を満たす。

 今までも吉乃といた時に近しい感情を覚えていたような気がするが、恐らくこれが愛おしいという気持ちなのだろうと、今日初めて理解した。


 吉乃が愛おしい。好きだという言葉を交わし、顔に熱を帯びた彼女は嬉しそうに目を細める。

 可愛らしくて、愛おしい。そんな感情が止まらない。


「それだけ、ですか?」


 またも首を傾げた吉乃が大変に可愛い。細められた目と普段より少し広がった唇の端が彼女の喜びを示してくれている。

 しかし、「それだけ」とは何だろうか。


「ええと……吉乃さんが好きだ。愛おしいと思う」

「いとっ……」


 ただ好きなだけではないと、今自分が感じている事を伝えてみるのだが、目を見開いた吉乃が顔を更に赤くする。

 そうして少しの間響樹の顔に固定していた視線を外し、吉乃は小さくため息をついた。


「響樹君はこういう人でしたね」


 少し眉尻を下げておかしそうにふふっと笑ってから、吉乃はじっと響樹の目を見つめた。

「もう既に満足してしまっていそうですから」と、口元を押さえてもう一度笑い、吉乃は優しい笑みを浮かべる。


「天羽響樹君」

「はい」

「私とお付き合いしてくれますか?」

「あ……ああ、もちろん」


 ほんの少しだけ首を傾げた吉乃に頷き、もう一度大きく頷く。

 好きだと口にし、好きだと耳にし、吉乃が言う通り響樹はそれで満足していた。その先にある関係性の変化にたった今気付いたくらいだ。


「やっぱり」


 くすりと笑い、吉乃が僅かに眉尻を下げる。


「あのまま私が何も言わなければ響樹君は『それじゃあ』なんて言って帰ってしまいそうでしたから」

「いや、流石にそこまでは……無いはず」


 そう思いたいのだが、吉乃に対して「好きだ」と伝えたいと思った瞬間、その言葉は既に口を衝いていた。

 あれだけ隣にいたいと、特別な一人になりたいと思っていた吉乃と、どうなりたいかは全く頭に無かった。


「では、響樹君の口から今後の事を聞かせてください」

「えー……」


 ニコリと笑う吉乃に響樹は内心で頭を抱える。

 今後の事と言われてもまるで考えてはいないのだから、まずは時間を稼ぐしかない。


「確認だけど、俺と吉乃さんは恋人って事でいいんだよな?」

「はい。お付き合いをする訳ですので」

「それじゃあ。改めてだけど、よろしく。手、いいか?」


 そう言って響樹が差し出した右手を見つめ、吉乃はぱちくりと瞬きをしてから苦笑した。

「響樹君らしいと言えばらしいですけど」と、先ほどと似たような言葉を口にしながら両手の手袋を外す。


「これではビジネスパートナーのようですね」

「あ。確かに」

「なので」


 響樹としては言葉通りよろしくしてほしかったのだが、恋人になっていきなり握手ではムードが無い。

 しまったなと思っていると吉乃がふふっと笑い、「右手、合わせてください」と甘く囁くように声を出した。

 かすかな声が届いたのは吉乃が更に距離を詰めたからで、靴一つ分の位置にいる彼女はハイタッチを要求するかのように左手を肩の高さで掲げ、手のひらを見せている。


あったかいな、吉乃さんの手」


 吉乃の整った顔が少しだけ弛んだ。

 言葉の通り、合わせた手のひらから温かさがこれでもかと伝わる。


「手袋をしていたからですよ」


 空いた右手で首元のマフラーを少し持ち上げ、口元を僅かに隠しながら吉乃は可愛らしく首を傾げ、上目遣いの視線を響樹に送る。


「いや。吉乃さんだから、こんなに温かいんだと思う」


 合わせた位置を少しずらしてゆっくりと指を折り、吉乃の手の甲に触れた。

 驚くくらいに厚みの無い手のひらなのに、なめらかな手触りの肌は本当にやわらかで、更に驚かされる。


「響樹君は、そういう恥ずかしい事を無自覚に言うのは良くないと思います」


 上目遣いが恨めしげなものに変わり、吉乃の口元が完全にマフラーの中に沈んだ。

 それでも、響樹の手の甲にも吉乃のしなやかな指の、やわらかな先端が優しく触れた。


 思えば響樹の実家でもこうして指を絡めていた。吉乃が絡めてくれた。

 しかしあの時と違うのは、お互いに想いを伝え合った上で、確かな好意の上で成り立っている事。

 絡めた指にほんの少し、吉乃の細い指が折れてしまわないようにと僅かだけ力を込めると、彼女の指がそれに呼応する。


 吉乃の恨めしげな視線は照れを多分に含んだ可愛らしいものへと変わっており、自分の頬が弛むのを自覚した。恐らく今までで一番だらしない顔をしているだろう事も自覚し、吉乃と同じようにマフラーに顔を沈めた。

 それでもお互いから視線は逸らさず、存分に恥ずかしさと幸福を味わう時間が続く。


「吉乃さん」

「はい。何でしょうか、響樹君」


 甘い静寂を破り響樹が口を開くと、吉乃が小首を傾げてやわらかな微笑みを見せる。

 靴一つ分の距離を少し縮め、今は握りこぶし一つ分ほど。


「さっき言ってた今後の事、一ついいか?」

「はい。聞かせてください」

「このまま抱きしめてもいいでしょうか?」

「……どうして敬語になるんですか」


 マフラーの下の頬を少し膨らませる様子がわかったが、すぐに空気が抜ける。


「答えは口で言わないとわかりませんか?」

「いや。吉乃さんの事ならわかる」


 自信を持ってそう口にすると、吉乃の顔が綻んだ。

 そうして右手は吉乃の左手と絡めたままに、空いた左手を彼女の細い腰に回した。

 ほんの少し力を入れて引き寄せると、吉乃は力を抜いた体をそっと響樹に預けてくれる。二人の距離は今、ゼロ。


「吉乃さん」

「響樹君」


 耳元で名前を呼ぶと、吉乃の右手が響樹の背中に回され、顔はゆっくりと胸元に埋められる。

 甘い香りと高揚でくらくらしそうになるのを唇を噛んで堪え、そのまましばらく幸せに浸った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る