第70話 負けず嫌い

 やわらかな手に包まれ、言いようのない温かさと居心地の良さを感じる。

 情けない心情を吐露したばかりで最低な気分だというのに、彼女が手を握ってくれた事が嬉しくて、今更ながら急に恥ずかしさが増した。


「響樹君」


 優しい声に恐る恐る顔を上げれば、吉乃はただただ優しい微笑みを浮かべて響樹を見つめていた。

 気遣うような表情をしていたらどうしようかと思っていた。もちろん彼女の内心にはそういった気持ちもあるのだろうが、それでも少しだけ安心してしまう。


「もう、大丈夫。変な事聞かせて悪かった。できれば忘れてくれ」


 母が去って時間が経った事が理由か、誰にも聞かせた事の無かった不満を吐き出せた事が理由か、吉乃が優しく寄り添ってくれた事が理由か、何はともあれ響樹の精神状態は母に会う前くらいまでには戻ったような気がしている。


「無理な相談ですね。響樹君もわかるでしょう?」


 優しい微笑みを崩さぬまま、吉乃は響樹の右手を包む両手に力を入れた。逃がしませんと言われているようだ。

 本当は響樹も逃げたくはないのだが、吉乃の優しさにつけこんでいるようで気が引けてしまう。


「私、響樹君のご両親の事はわかりませんけど、響樹君の事ならわかります」


 響樹の右手を持ち上げながら、吉乃は体を更にこちらへ向けた。衣服越しではあるが膝と膝が触れ合い、握られた手と相まって心臓の鼓動が早くなる。


「響樹君は、いじっぱりで負けず嫌いで、ああ言えばこう言うような人です」

「……否定はできないけどさ」


 どこか自慢げな笑みを浮かべながらそう口にした吉乃は響樹の返答にふふっと笑い、「でも」と言葉を続ける。

 やわらかな笑みを浮かべ、ほんの僅かに頬を染め、響樹の右手を自身の胸元で握りながら、まっすぐに響樹を見つめて。


「響樹君が強くて優しい、とても素敵な人だという事も、私は知っています」

「……そうか?」

「ええ。一言一句嘘はありませんよ?」


 面と向かってそんな事を言われて顔が熱い。

 響樹の照れ隠しを堂々と受け止め、吉乃は可愛らしく首を傾げた。


「あの日、ボロボロになりながらも私を肯定してくれた響樹君の言葉も声も、表情も。優しさも強さも、全て鮮明に思い出せます。だから、今度は私の番です」


 胸元でぎゅっと握られた吉乃の両手から、彼女の真剣な思いが伝わるような気がした。


「でも、あの時の弱い私と違って響樹君は強い人ですから。覚悟してくださいね」

「え?」


 ニコリと笑い、可愛らしく首を傾げた吉乃は「それでは」と口を開く。


「今の響樹君は響樹君らしくありません」

「俺らしく、ない?」

「はい。響樹君のご両親の事はわかりませんけど、境遇は私と似ているんだなと思いました。だからわかります。響樹君は悔しくありませんか?」


 悔しいとはどういう事だろうか。確かに何をしても両親の瞳に映れなかった事は悔しいと思うが、しかしそれはもはやどうしようもない事だ。

 意図がわからず吉乃の顔を見つめ返すと、彼女は優しく微笑みながら小さく首を振った。


「かつての私もそうでしたけど、過去に囚われて自分の人生に制限をかけてしまうのは勿体ない事だと思います。私は響樹君に言葉をかけてもらって、その事に気付きました」

「過去に……」

「今までの響樹君がどれだけ辛い思いをしてきたか、私に全てはわかりません。でも、今の響樹君が過去に負けない強い人だという事を、私は誰よりもよく知っています」


 吉乃の言葉と手から、彼女が響樹に寄せる信頼が窺える。

 そうして、吉乃の表情が変わる。優しい微笑みから少しいたずらっぽい笑みに。


「それとも、響樹君は過去に、ご両親にも、負けてしまいますか?」

「……そんな訳、無いだろ。ああ。無いに決まってる」


 吉乃の手を握り返し、まっすぐに彼女の顔を見つめ、強く頷き、そう口にした。

 なるほどと思った。流石吉乃は響樹の事をよくわかってくれているのだと、胸が熱い。


 両親の響樹への態度に寛容になれる訳でも、まだこちらから歩み寄ろうとも思えない。ただそれでも、天羽響樹はそんな事に負けていじけてはいられない。

 そんな自分では、吉乃の隣で胸を張れないのだから。


「はい。それでこそ天羽響樹君です。私が……私の知っている、負けず嫌いで優しい響樹君です」

「吉乃さん、結構厳しいよな」

「響樹君の事を誰よりも信頼していますので」


 響樹の手を強く握り返し、少し赤い顔の吉乃が誇らしげな笑みを浮かべた。



 母の帰宅からだいぶ時間が経っているような気でいたのだが、家を出てもまだ日は落ちていなかった。

 今更ながら時間も確認していなかったのかと苦笑が漏れる。隣の吉乃に「どうかしましたか?」と尋ねられたが、「何でも」と笑って返すと彼女の方も「そうですか」と楽しそうに笑っていた。


 帰り道、交わした言葉は行きの時よりもずっと少ない。

 響樹の感情や思考の整理のためなのか、吉乃はずっと隣で静かな笑みを浮かべていて、響樹の視線は時折そんな彼女の優しい視線に絡めとられた。


 バスに揺られ、その度に隣に座った吉乃と肩が触れ合った。彼女との距離はこんなに近かっただろうかと不思議ではあったが、近くにいたいのだと思えた。

 電車では座れなかったが、並んで立った二人の距離は行きよりも混んでいるおかげで近い。


 電車を降りて改札を出るまで歩いたが、当然座席や混雑の制約が無い分吉乃との距離が遠い。彼女を家に送るまでの道のりでもそうだ。

 以前よりはずっと近い距離なのに、けっして触れ合う事が無い間隔は断崖にも思えた。だから飛び越えてしまいたくて、何度目かになろうという言葉を告げる。


「吉乃さん。改めて今日はありがとう」

「どういたしまして。私としてはようやく響樹君の支えになれて嬉しい限りです」


 足を止めぬままで頭を下げると、吉乃の方も同じように歩を進めながら響樹に優しい笑みを向けた。


「今日からいきなり切り替えるのはできないかもしれないけど、それでも俺はもう大丈夫だ」


 まだきっと両親に会えば気まずい思いはするだろう。嫌な過去を思い出すだろう。

 だがもう負けない。今とこれからの自分に何の制限もかけない。それを今この場で吉乃に誓った。



「送っていただきありがとうございました」


 既にだいぶ暗くなった頃、別れの時間がやって来る。

 綺麗な顔で綺麗な礼を見せる吉乃にこちらも腰を折って応じ、あとは最後の挨拶を残すのみ。


 明日は年内最後の日。年始もそうだが吉乃との約束はしていない。

「それでは良いお年を」と吉乃が穏やかな笑みを見せ、響樹の言葉を待っている。

 次に会えるのはいつになるだろうか。初詣にでも誘ってもいいだろうかと、そんな思考を巡らせながらかけるべき言葉を探した。


 次に会う日が決まっていないというのはこんなにも寂しいものだったのかと、今更ながらに悟り、焦燥を自覚した。そして、それほどまでに吉乃に焦がれる自分にも気付いた。


「吉乃さん」

「はい」


 まっすぐにこちらを見つめる吉乃に届ける言葉にも気付いた。


「好きだ」


 自覚していた感情に、ようやくその名前を付けた。


 目を丸くした吉乃をずっと見つめていたいと思ったのに、それは長く続かなかった。

 何故なら、目を細めてほんの少し口の端を上げ、優しい微笑みを浮かべた吉乃が静寂を破ったから。


「はい。私も響樹君が好きです」

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