第69話 白い手に支えられ

「久しぶり」の一言も無いのかと、自分の事を棚に上げて腹を立てた響樹の隣から吉乃が一歩前に出た。

 一瞬見えた横顔には穏やかな笑みが浮かんでいて、玄関に入る時よりも更に少し深い礼はとても綺麗で、怒りも忘れて見入ってしまう。


「はじめまして。響樹君の高校の友人で、烏丸吉乃と申します。ご不在の折にお宅に上がらせていただき――」

「ああ、堅苦しいのはいいから。私は響樹の母ね」


 吉乃の穏やかな声を遮ったのは軽い調子の声。

 四十歳になろうかという母は、実年齢より十歳ほど若く見える顔に軽薄な笑みを浮かべて吉乃に不躾な視線を送っている。


「で、響樹の彼女?」

「いきなり失礼だろうが!」


 頭に集まった熱は怒りのためか羞恥のためか、きっと両方だろう。

 今日の響樹がどれだけ吉乃に助けられたか、当然母は知らない。しかし響樹からすればそんな吉乃に対しまともな挨拶もしないままに無礼な発言は看過できない。それなのに母は声を荒げた響樹を一瞥しただけでまるで気にした様子が無い。

 しかし吉乃は穏やかな笑みを崩さずに響樹へと向け、一瞬だけ優しい目を見せた。大丈夫と、暗にそう言われた事は明らかだ。


「いえ。響樹君には大変お世話になっていますし仲良くもさせていただいていますが、そういった関係ではありません」

「なんだ、そうなの。響樹も段々正樹まさきさんに似てきたし、だからこんな綺麗な子を捕まえてきたと思ったのに」

「だから、そういう失礼な言い方はやめろ」


 恋人でないと聞いてからはもう既に吉乃からも興味を無くしたようで、今度はあっさり響樹へと視線が向く。


「で、何でいるんだよ? 戻れないんじゃなかったのか?」

「朝の内にはね。元々は立ち会う予定だったんだから日本には戻るに決まってるでしょ? それに年末年始は元々国内で過ごすつもりだったし」


 当たり前のように言われ、響樹は言葉が出ない。

 日本に戻って来るのならばどうして、自分に何の連絡も無いのか。


「そうそう。明日から三が日が終わるくらいまでは正樹さんと旅行に行って、その後ここに戻って来る予定だけど、響樹はどうせ向こうで過ごすでしょ?」

「……ああ」

「正樹さんが今日は本社の人たちと飲みに出てるから一応確認で戻って来たけど、まあ響樹がいるし、そっちの吉乃ちゃんもしっかりしてそうだからいいか。ここに来るまでも綺麗に仕上がってたしね」


 リビングの中を軽く見渡し、母は変わらず軽い調子で笑う。


「じゃあ私はこっちの友達のところに顔出して正樹さんのところに戻るから、戸締りよろしくね」

「……ああ」



 出ていく母の背中を見送り、そこからどういう行動をとったかの記憶が定かではないが、響樹はソファーに座っていた。

 顔ごと伏せた視界の右側には黒いロングスカートが映り、かすかに届く甘い花の香りとともに少しだけ響樹の心を落ち着けてくれる。


「ごめん」

「謝ってもらう理由が思い浮かびません」


 吉乃の声は静かで、優しい。

 だが、謝る理由はいくらでもある。母が失礼な態度をとった事、それに対し響樹が改めさせられなかった事、今こうして気を遣わせている事。細かく言えばもっとあるはずで、拳に力が入る。


「響樹君」


 またも優しい声。そして、握りしめた右手にゆっくりと触れるものがある。

 視線を移してみれば、吉乃の白い指がそっと響樹の拳に触れて、次に手のひらで優しく包み込んだ。


「そんなに強く握ったら怪我をしてしまいますよ」


 驚いて顔を上げた響樹に優しく微笑み、吉乃は響樹の右拳を包んだ左手にほんの少しだけ力を込めた。

 ゆっくりと自分の力が抜けていくのがわかる。触れられていない左手の方も同じく、それ以外の全身も。


「はい。捕まえました」


 そう言うのが早いか、力の抜けた右手に吉乃の白い左手が重なり、しなやかな指が絡められる。


「……吉乃さん?」


 しばらく二人の手から外せずにいた視線を吉乃に向けると、にこやかな笑みが浮かぶ整った顔には少し朱が差していた。


「こうすればもう手に力は入れられませんよね。私が怪我をしてしまいますから」

「そんな事しなくても……もう大丈夫だけど」


 離したくはないし、離してほしくもない。しかしこれ以上、吉乃に情けない姿を見せる訳にはいかない。

 言葉には出さずとも寄り添い慰めてくれている吉乃のおかげで、ようやくそんな事にさえ頭が回り始める。


「私がもう少しこうしていたいので」

「……ありがとう」


 僅かに目を細めた吉乃は言葉ではなく、ほんの少し指先に力を込める事で響樹に応えた。


「母さんが、悪かった。失礼な態度で」

「気にしないでください。むしろお母さまからすれば留守中に突然知らない人間がいた訳ですので、叱られなくてよかったです」


 空いた右手で口元を押さえ、吉乃はくすりと笑う。

 冗談めかして言ってくれたがその事についても響樹の落ち度だ。母への連絡で吉乃のことは一切触れていないのだから。もう一度「ごめん」という言葉が口を衝く。


「響樹君」と気遣ってくれる吉乃の視線が痛くて、響樹はもう一度顔を伏せて息を吐いた。長く、母が来た事で霧散しかけた覚悟をもう一度集めながら。


「さっきの様子見て大体わかったと思うけど、母さんは……父さんもそうだけど、別に俺の事は嫌ってない。折り合いが悪いんじゃなくて、俺が一方的に嫌ってる」


 これは吉乃に聞かせるべきでない話だとわかっている。両親と会話すらままならない状況の彼女と比べ、こちらは響樹が歩み寄れば済む話なのだから。

 先ほどはそれでも吉乃に話を聞かせなければという義務感のようなものがあった。しかし今は真逆で、彼女に話を聞いてほしかった。


 響樹の両親、天羽夫妻は近所でもおしどり夫婦として有名だ。これはこの家を建てる前、借家住まいだった頃から時と場所を変えてもずっと同じ事を言われ続けている。

 両親の仲がいい事は幼い頃の響樹にとっては恐らく誇らしい事であったと思っている。「響樹君のお父さんとお母さんは今でも恋人みたいだね」と、そんな言葉を無邪気に喜んだ。

 だから、両親が幼い響樹を置いて頻繁に外出する事にも疑問を覚えなかった。


 何故なら両親は響樹に対しても優しかったから。友人たちと比べて多くの物を買い与えられていたし、思い返してみても教育環境は整っていた。それについては今でも感謝をしている。

 しかしいつの頃だっただろうか、響樹が自身の家庭環境に疑問を覚えたのは。両親の目に自分が映っていないと気付いてしまったのは。


 響樹は、父にとっては「妻である天羽真樹あもうまきと自分の息子」であり、母にとっては「夫である天羽正樹あもうまさきと自分の息子」でしかなかった。

 だから、彼らの瞳が響樹に向いている時でも、天羽響樹ではなくその後ろにいるパートナーが映っていた。

 両親が響樹を褒める時、必ず二言目には「流石は正樹さんの子ども」「真樹の育て方がいいから」といった類の言葉が付け足される。


 小学校の高学年ほどになったころ、「今でも恋人みたい」とよく言われる言葉が本当にその通りの意味であるとようやく悟る事になる。

 恋人のような夫婦の関係が悪いとは一切思わないが、天羽夫妻はいつまでもただ恋人のままであり、響樹の親にはならなかったのだと、そう思ってしまった。


 もちろん理屈の上ではそうでない事はわかっている。響樹の両親は親として最低限の義務は果たしているし、それどころか響樹の教育に金銭は惜しまなかった。

 ただ、手間はかけなかった。彼らの時間は二人だけのもので、響樹のために使うものではないのだから。


 そうして響樹も多感な年頃になり、家の中いたる所でベタつく両親に嫌悪を覚えるようになる。単純な悪感情ではなく、自身の境遇も入り混じった複雑な憎しみが恋愛という行為そのものに向いた。

 恋愛をする者全てがその他を蔑ろにする訳ではない事などもちろんわかっていても、自身の感情に落としどころを見つけるまでには時間がかかった。

 中学に入る頃には恋愛に対する憎悪は流石に消えたが、嫌悪はずっと残ったままだった。


 両親に対しても同じで、尋ねられなければ必要な事以外の会話をほぼしない日々がずっと続いたが、彼らはそれをまるで気にしなかった。何かを尋ねられる事もほとんど無いままに、響樹は高校生になる。

 それから少しして父の海外赴任が決まる。当然母は付いていくだろうと思っていたが、響樹はもちろん日本に残るつもりでいた。


 結果そうなりはしたが、両親は最初から響樹を連れて行く気は無かった。「住みたい部屋を探しておけ」と言われ、初めてそれを知った。

 せめて「お前はどうする?」と意思の確認くらいはされるものと思っていたのに、両親は二人きりでの海外生活に思いを馳せるのみであり、響樹の事は眼中に無いのだと思い知らされた。

 響樹の卒業よりも先までの海外赴任なのに、響樹の事など金さえ出しておけばいいのだと、両親はそんなふうに考えている。


 それが響樹にとって両親との致命的な断絶であった。

 しかしそれなのに、久しぶりに会った母はまるでそんな事を気にしていないふうで、頭の中がぐちゃぐちゃになる。


 そんな自身の人生と心情を頭の中身と同じようにぐちゃぐちゃになった言葉で語った。恐らく何度も似たような言葉を重ねただろう。

 それなのに吉乃はずっと響樹の手を優しく握り、言葉に詰まるときゅっと少しだけ力を込め、ずっと待っていてくれた。


「ありがとう、吉乃さん」


 話を聞いてくれて。手を握ってくれて。隣にいてくれて。支えてくれて。いくつもの感謝を心の中で送る。


「どういたしまして」


 ずっと顔を伏せたままの響樹からは見えないが、優しい声は変わらない。


 伏せた視界に映る吉乃の膝の向きが少し変わり、響樹の方に向く。

 そしてゆっくりとそっと、繋いだ二人の手の上に、吉乃の右手が重ねられた。

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