第68話 存在しない16年
その後も吉乃から留意すべき点をいくつか教わっている内に清掃業者が予定の時間よりも少し早くやって来た。教わっていた事が早速役に立ち、案内と簡易的な打ち合わせは特に問題無く済む事となる。
先方の責任者が言うには、響樹がすべき事は終了後の完了報告書へのサインと最後の施錠だそうだ。あとは彼らが昼食をとりに出掛ける間は家にいてもらえるとありがたいとの事だった。
「あとは普通にいるだけか」
「そうですね。大した事は無かったでしょう?」
先に響樹の部屋をと頼んだ件は快く了承をしてもらい、15分ほどで終わらせてもらった。響樹が簡単でいいと伝えていた事もあって、吉乃曰く「だいぶ早いです」だそうだ。
「ああ。だけど吉乃さんに教わってなかったら結構テンパってたと思うぞ。だから、ありがとう」
「どういたしまして。お役に立てて何よりです」
テーブルを挟んで向かいに座る吉乃に頭を下げると、彼女はやわらかな微笑みを浮かべて喜びを示してくれる。
響樹の気持ちとしては一度の「ありがとう」ではまるで足りない。しかしそれを吉乃に伝えても気を遣わせるだけだろうと、可愛らしい表情から断腸の思いで目を逸らし勉強道具を取り出した。
「それじゃ勉強会という事で」
「ええ」
響樹の言葉に吉乃がやわらかな微笑みを浮かべ、そこからは普段と変わらぬ勉強の時間。
業者が二階にいる内は音もいくらか聞こえたが、集中のおかげかあまり気にならなかった。
そうして勉強を始めてしばらくして、部屋のドアをコンコンとたたく音が聞こえた。
ノックに「どうぞ」と応じると、ドアを開けたのは打ち合わせをした業者の責任者。
「天羽さん。午前中の作業は予定通りで終わりました。私たちは昼食をとらせてもらいますので少し空けますが、問題ありませんか?」
内容自体は事前に聞いていたので全く問題は無いのだが、何故か天羽さんではなく烏丸さんの方に尋ねている。響樹は彼らに「天羽です」と名乗りはしたが、吉乃は名乗っていないため家族だと思われたようだ。
そして声をかけられた当の吉乃は訂正するでもなく、「私たちがいますので大丈夫ですよ」と穏やかな笑みを浮かべながら言葉を返していた。
「天羽さん、だそうですよ」
静かに閉じられたドアを少しの間見つめていた吉乃が響樹の方へ顔を向けると、透き通るように白いその頬がほんの少しだけ弛んでいた。
「烏丸さんだけどな」
「ええ。でも、向こうの方は響樹君のお姉さんとでも思ったんでしょうね」
ふふっと笑った吉乃が目を細め、響樹に優しい視線を向ける。
どうも吉乃は響樹に対してお姉さんぶりたがると言うか世話を焼きたがる節がある。生まれ月でいえば響樹の方が半年早く、彼女の方もそれを知っているのだがあまり関係が無いようだ。
「妹の間違いだろ」
「そうでしょうか?」
自分でも苦しいと思いながら言い返してみたが、吉乃はにこやかな笑みを浮かべて首を傾げている。
相手が兄妹だと思ったのならまず兄の方に声をかけるだろうし、そもそも響樹と吉乃では彼女の方が大人びた雰囲気を纏っているのだから姉と弟と見るのが妥当だろう。
「響樹君は負けず嫌いですね」
少し逸らした響樹の視界の隅で吉乃が口元を押さえてくすりと笑い、腕時計に視線を落とした。
「少し早いですけど、私たちも昼食にしますか?」
「そう、だな」
同じく時計に目をやってから応じ、テーブルの上を片付けて広げた弁当は吉乃が作ってくれた物で、手提げの中には水筒も二本きっちり用意されている。
響樹の心情部分を抜きにしても、清掃前のアドバイスと言い今日は本当に吉乃の世話になりっぱなしだと再認識し、姉と言われても仕方の無い事だと小さなため息が漏れた。
「頼りになるお姉さんでしょう?」
「……ああ、ほんとにな」
自慢気な笑顔を浮かべた吉乃に降参だと手で示しながら応じると、ふふっと笑った彼女が「でも」と言葉を続けた。
「お姉さんは今日1日だけですよ?」
右手の人差し指を顔の横に立て、楽しそうに目を細めた吉乃がしなをつくるように首を傾げる。
「ああわかってる。ってか今日1日でさえ姉になってもらうつもりは無いからな」
「残念です」
発言の内容とは逆に、吉乃の顔には嬉しそうな微笑みが浮かんでいた。
時折幼さに近いあどけない姿を見せる吉乃、今日のように頼りになる姿を見せる落ち着きのある大人びた吉乃。しかし当然、響樹にとっては姉でも妹でもない吉乃。彼女の事はけっして姉とも妹とも思いたくない。
◇
昼食の後も業者による清掃はつつがなく進行したようで、15時台には片付けを含めて全て終了。
終了の少し前に声をかけてもらった響樹は、吉乃に付いて来てもらい清掃後の状態や動かした家具の配置などを簡単に行い、問題が無かったため報告書に署名した。
「あとは最終の施錠確認でよかったか?」
「ええ。それから水回りなども一応見ておきましょう」
業者が帰った後、そう言ってくれた吉乃を伴い最後の見回りに出る。
これについてはこの家に詳しくない吉乃は部屋で待っていてくれと言ったのだが、「一緒に行きます」との事だったので結局は同行してもらった。
まずは水回りを含めた一階、次いで響樹の私室や両親の寝室などのある二階、そして全てを見回ってから荷物を持ってリビングへ。
「これで見落としは無いはず。ありがとう、吉乃さん」
「どういたしまして、響樹君」
二人でソファーに腰を下ろし、そんなやり取りをする間もその前もその後も、吉乃はずっと響樹の方を向いている。穏やかな笑みを湛えたまま。
無理をさせたなと思いながら、響樹が吉乃の体の正面の方に視線を向けると、彼女の華奢な肩がほんの少し震えた。
「吉乃さん。あれ、気になってるだろ」
「……すみません」
ソファーの正面の壁面に飾ってあるコルクボードと付近の棚の上にある写真立てを指差すと、吉乃は気まずげに頭を下げた。
見回りの時に吉乃がそれに目をとめて気にしている様子には気付いていた。それでも見なかったふりをして響樹を気遣ってくれている彼女に対し、もう隠しておくべきでないと思う。
「いいよ。あんなふうに飾ってあるんだから。両親にとっては見せたい物な訳だし」
「……ご両親にとっては、ですか」
「ああ」
響樹にとっては誰かに見せたい物でも自分が見たい物でもない。
リビングに飾られている写真は全てが両親二人で写った物で、そこに響樹の姿は無い。アルバムの中身はもう少しだけマシだったと記憶しているが、やはり響樹の写真は少なかったはずだ。もう在り処も忘れてしまったので確認はできないが。
立ち上がり写真の近くまで歩を進めて改めて確認してみても、そこにあるのは結婚前から今年に至るまでの20年以上にわたる両親だけの写真。その20年以上の中に、響樹の16年は存在しない。
写真立てを一つ手に持ち、これは何年前の物だったかなどと少し現実逃避的な思考をしながら吉乃を振り返ると、ちょうど彼女が立ち上がってこちらに歩いてくるところだった。
その整った顔には当然笑みなど無く少し硬い、響樹を気遣う穏やかな表情が浮かんでいる。
悲しい記憶を残させたくないと思ったのは今日の事だというのに、早速これだ。しかしそれでも、今日この場で吉乃に伝えるべきだと、そう思った。
「聞いてくれるか?」
「はい。聞かせてください」
「ありがとう」
もうあと半歩よりも近い所まで来てくれた吉乃は、「はい」ともう一度口にし、目を細めて優しい微笑みを響樹に向けた。
「俺と両親の折り合いが悪いって昨日言ったけど、あれは正確じゃない」
覚悟を決めて息を吸い、優しい視線を響樹から逸らさないままの吉乃を見つめ返し、響樹は口を開く。
そして、次の言葉を伝えようともう一度息を吸ったところで、玄関から音が聞こえた。
(誰だ?)
カチャリと小さな音は鍵を開ける音、次いでかすかに聞こえたのは玄関のドアを開く音。
誰だ、などと考えるのは間抜けな行為。いや、逃避だったのだろう。この家の鍵を持つのは三人だけだ。
「響樹君?」
「だい、じょうぶ」
気遣わしげな吉乃に笑ってみせたつもりだが、多分そうはなっていなかったのだろう。彼女の表情が僅かに痛みを堪えるような様子を見せる。
そうしている間にもスリッパを履いた足音がだんだんと近付き、リビングの扉が開かれた。
「あれ。響樹いたんだ」
「……母さん」
入って来た彼女は、あっけらかんとした様子でそう言った。
3ヶ月ぶりの再会を祝う気持ちは、響樹はもちろん向こうにも恐らく無かっただろう。
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