第67話 少し落ち着かない彼女

「まあすぐ着く訳なんだが」


 停留所から歩いて数分の場所にある響樹の実家は、周囲の地価を無視するのであれば割と一般的な二階建て住宅だ。満足に遊べるほど広くはないが庭付きで、今は空だが車二台分のガレージもある。

 響樹も流石に自分の家庭が裕福である事は承知していて、両親との折り合いの悪さもあって友人を家に招く事には少し気後れしてしまう。しかし裕福の基準が更に上の方にある吉乃という事もあり、今日はそんな感情はまるで覚えなかった。


「とりあえず入ってくれ」

「はい、お邪魔します」


 鍵を取り出して玄関を開けて吉乃を招くと、彼女は一度立ち止まって丁寧に頭を下げた。

 今まで響樹に対して見せた事のあるものとは違い、腰の角度は45度の最敬礼に近く、綺麗に伸びた背筋とさらりと流れる濡羽色の髪と相まって大変に品が良く、そして美しく見える。


「誰もいないしそこまでしなくても」

「こうした方が私が落ち着くので」


 当然見惚れていた響樹がそれを誤魔化すように苦笑を浮かべてみせると、吉乃のやわらかな微笑みも苦笑に変わる。


「改めましてお邪魔します」

「ああ、いらっしゃい」


 と口にしたものの、吉乃を伴って入った自分の生家には違和感を覚えた。

 響樹が一人暮らしをしてから3ヶ月の間で一度も帰らなかった家の中は、多少の埃が増えた以外は記憶にあるよりもだいぶ物が減っており広く感じる。


「三ヶ月近く誰も入ってないからな。あまり綺麗じゃなくて悪い」

「いえ、大掃除という事でしたので想定していた範囲内ですよ」


 そう優しく微笑んでくれた吉乃にスリッパを渡して靴を下足箱にしまい、二階にある響樹の部屋の窓を開けて埃を落としてから――吉乃は手伝うと言ってくれたが流石に待ってもらった――招き入れた。

 礼こそしなかったが、吉乃は玄関を通る時よりもどことなく緊張の面持ちを見せ、「失礼します」と恐る恐るといったふうに足を踏み入れる。


「ちゃんと拭いたから汚くはないと思うぞ」

「それは別に疑っていません」


 小さくため息をついた吉乃に首を捻った響樹だったが、彼女の方はそんな響樹に対して苦笑を浮かべ、そして部屋の中をきょろきょろと見回した。やはり少し落ち着きの無い様子が見え隠れする。


「ここが、響樹君の部屋……」

「まあそうだけど、珍しいか? 向こうの部屋だって何度も来てるし、こっちは運んだ物も多くてあんま残ってないし大した事ないだろ?」

「そうですけど、やはり緊張しますよ」


 そういうものだろうかと思うのだが、逆に吉乃の実家にある彼女の部屋を訪ねる事を考えてみると、確かに普段とは違った緊張があるのかもしれない。

 そう納得して吉乃のコートとマフラーをハンガーに掛けて吊るしたところ気付く。テーブルこそ新しく買いはしたが、クッションなどの運搬が簡単な物は大体今の部屋に運んでしまってある。


「悪い。座椅子持ってくるから、ベッドにでも座っててくれ」

「え。ベッ……」


 吉乃の返答を待たずに部屋を出て、一階から座椅子を運んで戻ってくると彼女は立ったままだった。直立不動である。


「座っててくれて良かったのに」

「だって、ベッ……」


 座椅子をテーブルに配置しながらそう口にすると、頬を染めた吉乃がちらりとベッドに視線を送る。どうやら抵抗があるらしいことはわかった。

 もちろん響樹も一人暮らしの方の部屋であれば吉乃にベッドを勧めたりはしない。しかしここでは布団どころかマットレスすら既に収納してあるので、ベッドと言ってもただの木の台でしかない。


「まあ、悪かった。とりあえず座ってくれ」


 掃除の段階で座椅子を用意しておくべきだった事を反省しながら着席を勧めると、吉乃はこくりと頷き今度こそ座椅子に腰を下ろした。


「とりあえず業者が来るって言ってた時間まで後20分くらいか。何か先にやっといた方がいい事ってあるか?」

「そうですね。響樹君はどういう手筈だと聞いていますか?」


 珍しく落ち着きの無かった吉乃だが、響樹が尋ねるとすぐに普段通りの彼女に戻る。


「何も。ただ業者の名前と時間だけ連絡が来て、あとは立ち会えってさ」


 もちろんこれは母が碌な情報を寄越さなかった事も原因ではあるが、やり取りを嫌った響樹が『わかった』としか返信しなかった事が大きい。

 子どもじみた感情である事は自身でも重々承知しているが、今更ながらそれで吉乃に迷惑をかける可能性に思い至り、少しだけ気分が落ち込む。


「悪い。ちゃんと確認しとかなくて」

「構いませんよ」


 そんな響樹の内心を知ってか知らずか、吉乃が優しい微笑みを湛えながら静かに言葉を口にする。


「昨日言いましたよね? 私が一緒だとお役に立ちますよと。響樹君の力になれる機会ですから、むしろありがたいくらいです」

「そう言ってもらえると助かる」


 軽く頭を下げると、「どういたしまして」と優しく笑い、吉乃は言葉を続ける。


「まず確認ですが、今日来る業者の方は今までも頼んでいたところですか?」

「いや、多分初めてだと思う。俺が知る限り今までこういう事は無かった」

「でしたら最初に家の中を簡単に案内して、その後でお任せするのが楽だと思います」

「そんなんでいいのか?」

「ええ。先方もプロですから、下手に口を出すよりはお任せの方がいい仕事をしてくれますよ。もちろん触れてほしくない物や場所がある場合はしっかりと説明をしておかなければなりませんけど」

「へえ」

「それから先にこの部屋を清掃してもらう予定でしたから、その事も伝えなければなりませんね」

「ああ、そういやそうだった」


 響樹が苦笑したのに合わせて吉乃も口元を押さえてくすりと笑い、「お願いしますね」とほんの少し首を傾けて髪を揺らした。

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