第65話 お嬢様は電車に乗らない
「そう言えば響樹君の実家はどちらなんですか?」
「言わなかったこっちもあれだけど、それでよく付いて来るとか言ったな」
朝、伝えておいた出発の時間よりも30分ほど早くやって来た吉乃にお茶を出して少し落ち着いた頃、彼女はそんな事を言って首を傾げた。
ボウリングに行った昨日とは違い、今日はやはりロングスカートスタイルで、やはり黒を基調としている。違うのは白いコートとボルドーのショートブーツくらい。
「引っ越し前の響樹君が学校に通っていた距離ですので、それほど遠くない事はわかっていましたから」
「まあ、そりゃそうなんだけど」
ティーカップを口元へと運んだ後で「でしょう?」と笑い、音も無くソーサーの上に戻した吉乃は「それに」と言葉を続ける。
「場所が重要という訳ではありませんでしたので」
「今場所聞いたのにか?」
「ええ」
やわらかく微笑んだ吉乃はもう一度カップに口をつけ、「ごちそう様でした」と頭を下げて濡羽色の髪を揺らす。
「お粗末様」と応じた響樹は片付けようとして手を伸ばすのだが、「このくらいは私がしますよ」と吉乃が先回りをした。
そのまま「ありがとう」と任せると、笑顔を見せた吉乃がキッチンへ向かい、すぐに洗い物を済ませて戻ってくる。
「で、実家だけど。駅としては――」
響樹の実家は電車で三駅進み、そこからバスを使う。地下鉄を乗り換えた方が僅かに早くはあるのだが、バス停が家に近いのでバスを使う方が楽なのである。
「電車に乗るんですね」
「まさかとは思うけど、乗った事ないとか言わないよな?」
「言ってはダメですか?」
「マジか」
「マジです」
最初に電車と言った時にどこか嬉しそうな雰囲気を感じたので尋ねてみたが、吉乃はやはり楽しそうにふふっと笑い、こくりと頷いた。
お嬢様育ちだとは聞いていたが、中々に驚きである。
「でも流石に乗り方は知っていますよ。調べましたから」
胸を反らす吉乃だが、実際に買う時には多少苦労するのではないかと思えた。
響樹のICカードも引っ越しの際に残高ゼロにしてあるので一緒に切符を買えばいいだけなのだが、何となく吉乃本人に買わせてあげないと拗ねる気がした。
「響樹君。今、失礼な事を考えませんでしたか? 子ども扱いするような笑い方をしていました」
「気のせいだろ。さ、そろそろ行くか」
予定時間よりはまだ少し早いが、テーブルを挟んで送られる不満の視線から目を逸らして立ち上がり、コートのかかったハンガーを渡すと、ふうと息を吐いた吉乃がようやく機嫌を直した。
しかし、響樹よりも先にコートを着てマフラーを巻いた吉乃が、今度は妙に上機嫌な調子でコートを羽織った響樹に笑いかける。どこか妖しい笑みで。
「響樹君、マフラーを渡してください」
「ん? ほら」
他の誰かに言われたのなら相手が海であっても渡さないが、くれた本人である吉乃は別である。
巻くために手にしていたマフラーを渡すと、吉乃はニコリと笑って響樹の前に立ち、踵を上げて両手をこちらに伸ばして体を近付けた。
「じっとしていてくださいね」
思わず別の事をされるのではと一瞬考えてしまったが、少し甘い花の香りをふわりと漂わせる吉乃は、そのまま響樹の首元に黒いマフラーを巻いた。
自分でするのではなく他人に巻いてもらうせいか、皮膚に擦れるマフラーがいつもよりも少しだけくすぐったい。
「はい、もういいですよ」
最後に結び目をキュッと引っ張り、優しく笑った吉乃が遠ざかっていく。
「響樹君、顔が真っ赤ですよ?」
恐らく吉乃としては響樹が子ども扱いした事に対する意趣返しだったのだろう。してやったりという雰囲気であるが、照れたのはそれが原因ではない。
「驚いたんだよ、いきなり顔近付けるから。キ……」
「き?」
勝ち誇った様子の吉乃に対しいまだ残る動揺のせいで口が滑りかけてしまうと、彼女は不思議そうに首を傾げた。
そしてもう一度「き」と口にして数秒考えるようなそぶりを見せた後で、昨日の雪のように白い肌を一瞬で燃え上がらせた。
「キ……す、する訳ないじゃありませんか。許可もとらずにいきなりそんな事!」
「わかってるって。何て言うかこう、一瞬想像してしまったというか、その……」
「もうっ!」
憤慨したようにもう一度「もうっ」と口にした吉乃に「悪い」とだけ返し、そのまま何も言えずに立ち尽くす。
吉乃の方もそれ以上は何も言わなかったものの、自身の唇にそっと触れ響樹の目を奪う。その上でちらちらとこちらに目を向けるので、治まりかけの異常心拍が平静に戻るのを大変妨げた。
◇
「結局予定より少し遅れたか」
「響樹君が余計な事を言うからです」
玄関の鍵を閉めて腕時計に目を落とすと、吉乃がマフラーに埋めた口元から少し不満げな声を出した。
「3分だし、予定の時点で余裕があるから問題無いけどな」
それに加えて向こうの駅に着いてからタクシーを使えば時間短縮も可能だ。
「そうですか」
「そうだよ。ほら、それ貸して」
後ろ手で玄関のレバーを捻って鍵のかかっている事を再確認し、吉乃に手を差し出した。今日の彼女の荷物は普段より多く、白いバッグの他に大き目な手提げ袋を持っている。弁当を用意してくれると昨日言っていたのでそれだろうとわかる。
響樹の手をじっと見つめた吉乃は、ふっと息を吐き、「ありがとうございます」とやわらかな笑みを浮かべて弁当を渡してくれた。
「響樹君はずるいですね」
「なんでだよ」
袋の中身を確認し、必ず水平を保ったまま現地まで運ぶと決意して顔を上げると、吉乃がほんの少し眉尻を下げて笑っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます